日常生活という神秘 その四

2013年4月4日

今と永遠とは全く反対の様で、ほとんど同じものに違いない、そんな風に思うことがあります。

日常生活のつまらないことは世俗的だから、哲学的・宗教的真理と全く反対となっているけれど、実は同じものかもしれない。そうも考えます。

 

先日散歩の途中で教会の前を通り過ぎた時のこと、新教の教会は入口がたいてい閉まっていて入れないことが多いのに、その教会は珍しく開いていたので入ってみました。散歩仲間には、もとオルガン作りの人がいたり、音楽学者がいたりしてワイワイ言いながら教会を見ていました。

一人が歌おうと言うので何を歌うか決めている時に、仲間の一人が誰もが知っている普通のカノンを歌おうと言うと、別の一人が教会では世俗的な歌は歌わないものだと激しく拒否しました。

そのとき世俗と宗教性の違いはどこにあるのかとふと考えました。日常生活は極めて宗教的なものだと考えていますから、そう考える人もいるのかと少しびっくりしましたが、後で考えるとそちらの方が今はまだ常識的ということが解りました。

 

日常生活の些細なものにどの様な配慮がなされるのか、そこに深い精神性を見つけ出せるか、ここが将来の課題なんで、今の時点ではまだ世俗と宗教的は分離しているので仕方がないとして、これからのためにできることは何かと考えることは無駄ではないはずです。シュタイナーは彼の人智学の課題をここに置いています。

 

不思議と私は、宗教が世俗的になる方はあまり考えないのです。宗教的なものが好きだからでしょうか。それは私自身の中にある秘密です。世俗がどんどんはびこって行くとそこには危ないものがある様な気がしています。

宗教的という言い方がもしかすると多くの人に抵抗があるかもしれませんが、宗教的というのは外から人間のすることを縛り付けるものという意味で宗教的というのではないことは理解してください。

宗教的というのは自分と神的存在とを結ぶためのもので、言いかえれば世俗と神様との仲介者ということです。ですから世俗が宗教的にならなければ、といっているのは世俗が神的な方を向くことが今また必要になっているのではないかということです。

 

神は細部に宿る、という言葉に魅力を感じます。

誰がこんなことを言ったのだろうと、これを言いだした人のことを考えると、全体が良く見通せた人なんだということを感じるのです。個々の大切さは言うを待たないことですが、それと同じくらい全体を見通して初めて個の本質が見えて来ることをしっかり押さえていた人なんですね。

しかし全体を見通すということが大切だと解ったとして、どうしたらそれを得られるのだろう。これについてはおいおい考え行きたいと思っています。

 

日常生活は個別のことの、ありきたりの、なんでもない様に見えるものの寄り集まったものです。一日を振り返ればそれは解ります。しかし問題の本質は、その個々の特質とか、クウォリティーではなく、何かがそれをまとめているというところです。まとめている力が存在しているということです。そうしなければ個々のことは時間が経つとそのうちバラバラになって消えてしまうからです。個々にバラバラになってしまったものは思いだすことができないのではないか、そんな気がします。思いだせるためには何かが配慮されているということです。

個々と、個々をまとめているものがどう言うものなのか、私にはとても気になるのです。

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