音と音楽

2026年9月5日

音楽は音から作られていると考えられています。当たり前のことで、そこに疑問の余地などないかのようですが、案外当たり前ではないかも知れないのです。作品として出来上がった音楽が先行してしまうことが多く、音が単なる素材として粗末に扱われたりしていることを目にするからです。私はこれを致命的だと思っています。
音がぞんざいに扱われ演奏された音楽は耳障りでうるさいです。上手に演奏されて。もうるさいものはうるさいのです。食べ物の時には舌触りが悪いと言いますが、音楽は音が悪いと耳障りなものなのです。音が先か音楽が先かというのは卵と鶏の関係によく似ています。舌触りが悪い料理は折角の味付けなどにもよくない影響が出てしまい、良い印象を与えないものなのです。音楽もよくにいて、音が悪いと聞いていて耳障りになり、音楽が心に届かないものなのです。
良質の音が欲しいということであれば良い楽器を使えばいい音が得られるのでしょうが、それでは楽器に依存してしまっていて、演奏家の音への想いから生まれる音とは違うものになってしまいます。されでは聞き手に伝わらないのです。名器を演奏する人たちにしばしば見掛ける楽器依存症です。楽器がいいに越したことはないのですが、それ以上に演奏家の音に対しての向かい方が、音楽をきいた後の余韻に深く影響してくるのです。
音を作るための演奏技術のことはもちちろん知っておく必要がありますが、知っているというのはあくまで知識なので案外浅薄なものです。実際の演奏のばでは一瞬のうちに過ぎ去ってゆくので、知識で知っていた技術は本番では役に立たないものとなってしまいます。音楽は演奏している時の一瞬がものをいうもので、その時の心の持ちようや、ひらめきによって、作られる音が異なります。一人の人間でも体調のよくない時には満足できる音が出ないものです。心に不安があったり迷いがあったりすると、それも影響しています。
こんなに一瞬に左右される行為は他に見受けられないものですが、私は唯一日本の古くから伝わる武術にはそうした考えが生きていると思っています。
オイゲン・ハリゲルの著した弓道に関する文章は、西洋哲学を学んだ知識人が、知識から離れてゆかなければ弓を射ることができないと悟るまでの道のりを綴った貴重なものです。彼が極めた心境はドイツ語で「Es schießt」という言葉で要約されています。私という意識が的に向かって矢を射るというのではなく、弓を射るという状況が熟した時に弓矢は自ずと弓から離れていゆくのだ、ということを「Es schießt」で表現したのです。日本語で言えば、「弓を射る人と弓を射ることの間に隙が無くなった瞬間」と言えるのかも知れません。迷いがない、迷いから離れたということです。的を狙っている時には、本人は気づいていないのですが、実は隙だらけなのです。頭で整理して弓を射れと命じても、迷いがそのまま弓矢の軌跡に現れます。そうして射っても的に当たることはあるかも知れませんが、それが連続した時にそこに生じていた隙がやはり尻尾を出してきます。考えて放たれた弓矢は、弓と人の間に隙があるのです。それは経験としてしか把握できないもののようです。
音楽も、楽箏や楽曲の構成、強弱の表情付けなどで音楽の外枠を作っても、演奏している人と音の間に隙があると、耳障りなもので終わってしまうのです。名演奏とか、楽器の名手と言われる人の演奏にも、よく聞いてみるとその致命的な隙を感じてしまうことがあるのです。
音から音楽が生まれるということのようです。

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