続・思春期 その三 信頼

2013年7月15日

信頼したり、信頼されたりが生きる上で大きなエネルギーになるもので、もし信頼することを知らなかったら、人生はビー玉を30個くらいお盆の上に乗せてころがしながらぐるぐる混ぜて遊んでいる様なもので、ビー玉同士がぶつかり合っているだけのものと言えるかもしれません。さっきぶつかったビー玉にまたぶつかっているということはあっても、ビー玉関係は生まれてこないのですから、ほぞをかむ様な、味気ないものです。

 

人を信頼することができる、人から信頼されている、私はありがたいことだと思います。

信頼されているという感触は仕事をしている時には最大の励みです。頑張ろうという気にされてくれます。

信頼が人間関係を作り、深めてくれます。信頼がなければ先ほどのビー玉関係がそのまま人間関係の時にも起こってしまいます。

 

残念なことですが、信頼することができない人だっています。その原因を探すのは容易なことではありません。

ただそういう人には共通したものがあります。疑り深く、契約とか、法律とか、人間関係における形、形式に非常にこだわります。おそらくそこにしか生きている安心感が見いだせないのでしよう。

人間同士のお互いの生きた関係は切ってしまいますから、他の人から信頼されるということも無くなって、残された道は社会制度に頼ることだけです。そこに頼り切ってそれでがんじがらめになってしまいます。でもそれが安心なのです。

 

社会制度が悪いのではなく、それに頼らざるを得ないということがとても辛いことに思えます。

信頼がどの様に作られるのか、それに付いては幼児期が大切な時期であることを指摘する人が多い様です。

幼子は自分を母親に預け切っています。子の姿はとても美しいものです。この絶対信頼が信頼気の基本だと考えるのです。子どもはどこかで教えてもらった訳ではないですから、この信頼は生まれ持ったものです。ほとんど本能です。確かに信頼はここから始まります。

子どもが生まれた時から持っている信頼は自然信頼と呼んでみたいのです。それは成人した人間が感じている信頼とは違います。自然信頼は一度思春期の時に消えます。消されますという方が現実に近いです。反抗期として現れる思春期がそれを壊し、親を含めた周囲への信頼を消してしまいます。更に自分という存在も一度否定してしまいますから、思春期のある一時期は何も自分を支えてくれないという暗い状態を生きます。

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