Gespräch その二

2013年7月18日

Gespräch、この言葉が持っている重みは測り知れないもので、この言葉の上に一つの精神文化が築かれるくらいのものだと思っています。

自我と深い関係にあることはいうまでもないことですが、自我というのは抽象的に哲学してゆくと、どんどん迷路に入ってしまうものですが、具体的な実践の形としてみればGesprächをあげることができるものです。逆にGespräch自我の実践の姿を感じられる様になると自我がよく見えてきたということです。

相手を思いやりながら話しを聞く、とても上等なことです。兎角自分の言いたいことを口にしがちですし、自分が考えたことは素晴らしいものに見えるものです。相手に負けたくないという気持ちが働いたらその時点でGesprächは終って、討論になってしまいますから、とても繊細で、強い精神力がないとGesprächは続けられないものです。

相手の土俵で相撲を取るといういい方もなんとなく近いものを感じます。

昨日は、ドイツでは余り体験できないと書いてしまいましたが、ドイツに限らず話し合いの場でGesprächの領域にまで行っているものと言うのは民族の違いなど無く、なかなか体験できないもので、将来的には精神生活の指針となって行くものだといえます。

 

ダイアローク、対話とが最近の企業研修などでは盛んに取り上げられていますが、お互いが尊重し合いながら相手の考えを聞く訓練が、会社経営にとっても大きな力になると気付いたことからの采配だと思います。

経営者は時代を感じる力がないと会社をつぶしてしまいます。時代の少し先を読んでいる経営者も随分いらっしゃいます。時代を生きていること、きっと時代とのGesprächが成立しているということなのです。

その点学問と言うのは時代遅れを感じることが往々にしてあります。学者先生たちは、ミネルヴァと言われます。ミネルヴァと言うのはギリシャ神話の中で智恵の神様でもある女神ギリシャの象徴として語られています。フクロウのことです。一日が終わって夜になってようやく活動しはじめる智恵のあるフクロウです。時代の真っただ中にあって時代を感じながらお仕事をされている先生は希少価値で、大体時代が過ぎて、それを整理して学問的な体系づける仕事に専念する人たちなのです。時代と呼吸をしていないということです。

Gesprächは日本語に直すと呼吸となりそうです。「いき」のことです。時代であれ人であれ、相手の立場を理解するというスタンスからしか生まれないもので、しかも相手を理解しそこに自分が混ざって行くという繊細な技です。

 

日本の古武道の精神にはどこかこれに通じるものがある様な気がするのですが・・

 

Gesprächの生みの親と言うわけではないですが、精神的に高いものとして評価したドイツの文豪ゲーテは、ヨーゼフ・ハイドンの弦楽四重奏を聞いて感動してそこにGesprächの精神を感じたことを述べていますが、このハイドンと言う音楽家は、「パパハイドン」と呼ばれ、深刻なものがなく、いつも陽気で屈託のない音楽を書いた人と言う印象が西洋音楽の中では強い人ですが、ハイドンの音楽にゲーテはGespächを聞いたのです。

指揮者としていまだに尊敬され続けているフルトヴェングラーはハイドンの交響曲を「恐ろしいほどのシンプルさ」と言っていました。

シンプルとGesprächにどの様な共通性があるのかはいつかゆっくり考えようと思いますが、今日は自分を主張し始めると物事が込み入ってくるものです、というところにとどめておこうと思います。

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