金曜版 4 絵の中の世界観  

2014年4月26日

昨日は用事があってミュンヘンへ行き、用事の合間に美術館に立ち寄って、ラファエルとブリューゲルの絵の前に立って絵の醍醐味を満喫しました。

絵の鑑賞をしていると突然、世界観のことが頭をよぎりました。そしてすぐ後、自分は今まで絵をどの様に見ていたのだろうという疑問が湧いてきたのです。

絵の技法、時代的な背景、形式、スタイル、表現方法など、いろいろなコメントを付けて鑑賞していました。そのために随分本も読みました。役に立ったと思っていました。有名な絵の前にいるというミーハー的な喜びもありました。しかし昨日は絵は世界観から見なければと美術館を歩きなが呟いていました。

 

ラファエルのマドンナは人生観を変えるほどの存在感があります。絵のモチーフはいつも単純なものなのに絵の前に立つとぐいぐいひきつけられます。豊饒なオーラに包まれます。

昨日の絵はCanigianiと題されているマドンナ像の中の一つで、真ん中に緑の服を着たヨーゼフ、右に青い服をまとったマリア、左にはエリザベート、そしてその間に二人の裸の子どもが、イエスとヨハネでしょう、描かれています。私の目を引いたのは名状しがたい二人の子どもの眼差しでした。絵は横二メートル、縦三メートルはある大きなもので、それぞれの人の顔や姿を見て最後に二人の子どもに辿り着きしばらく見ていたら突然この眼差しに気が付いたのです。深い信頼感でお互いを見つめあっています。しばらく釘づけにされてしまいました。普段の生活ではこんな風に二人の人間が見つめ合うことはないので、興味津々で、距離を変えながら、見つめ合う二人を、長い時間をかけて見ていました。二人はまだ幼い子どもです。三歳になるかならないかです。しかし子どもの眼差しではないのです。二人の間には感情的な往き来はなく、お互いをよく知っていて、見つめ合うことで何かを確認しているようでした。ヨハネとイエスは二人が三十歳になった時に、ヨルダン川で洗礼をするものと受けるものという運命的な出会いをします。二人のまなざしはすでに子どもの時点でその運命を予感しているとしか思えない衝撃的なものでした。

 ラファエルが二人の子どもの眼差しをテーマにして描いたら、この眼差しはこれほど私を引きつけることはなかったと思います。

二人の眼差しは絵全体から見えて来るもので、モチーフではないのです。常に全体がこの眼差しを包んでいます。これがこの絵の前にしばらく立ち止まって見ていられた理由です。そうでなかったら、珍しいまなざしだとすぐに去っていたと思います。絵は温かいオーラの中で静かに語りかけています。絵には奇抜なこと、衝撃的なものは何も描かれていないのです。ただそれを見る者の中に衝撃的なことが起こるのです。ラファエルの絵はいつもこの様に私の前に現れていました。絵の持つ存在感です。存在感のある絵は見ていて飽きないのです。人も同じです。存在感のある人は側にいてくれるだけで大きな力になってくれます。

 

ピーター・ブリューゲルの絵は極めて日常的です。勿論中世・ルネッサンスのヨーロッパの日常です。もう七百年も前のことですが、ブリューゲルの描いた日常は古くなることのない今でも新鮮な日常なのです。これは驚くべきことです。服装、生活様式、子どもの遊びなど今は見ることのない古めかしいものばかりですが、ちっとも古くないのです。もし今日の日常を写真に撮って七百年後に見たらどうでしょう。賞味期限が切れたというか、時間の隔たりを感じ、ただ古いだけで、ブリューゲルの絵の中の日常の様に新鮮に見られることはないでしょう。何がブリューゲルにあって七百年もの間新鮮を保たせるのでしょう。

ブリューゲルの絵も存在感のある絵です。ほとんどの絵が沢山の人の様子を描いていますから、見ていて飽きない絵です。モチーフが珍しいわけではなく、テーマが興味深いわけではないのです。昨日見た絵は四人の男が寝そべっているだけでした。こんな退屈なことはないです。しかしそこに存在感があって絵から離れたくなくなるのです。七百年という年月はどこにも存在していないのです。今そこに四人の男ねそべっているかの様なのです。話しかけると答えてくれそうです。

 

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