ハイドンはもしかして高僧

2021年2月23日

ハイドンの音楽ほど宗教臭くないものはない、そう思いながらいつも聞いています。

宗教曲に一つ二つ重っ苦しいのがありますが、ほとんどのミサ曲は、19世紀の深刻好きな時代から敬遠されたほどの能天気な明るさです。それなのに俗つぽいところが微塵もないのですから、聞いていて安心です。余計なことを言うこともなく、人に気を遣わせるようなこともなく、いつ聞いても、聞き終わった後は心の中の曇りが晴れ晴れして爽快です。

 

こんな音楽を人に例えたらなんだろうと考えながら、今晩は、ハイドンのバイオリン協奏曲一番ハ長調を聞きながら明日の準備をしました。この曲が私をハイドンに導いた張本人だったのです。コレギウム・アウレウムのレコードを集めているときに買った一枚です。初めて音楽を聴いた様な錯覚を覚えました。独り言で「生きのいい新鮮な音楽だ」と呟いていました。凛として、それでいてしなやかさがあり、シンプルなのです。最後まで聞くとまた初めから聞き直し、三回目は第二楽章だけを聞きました。ドレミファソラシドとバイオリンが弾き始めます。ピッツカートの静かな伴奏でバイオリンの独奏部が続き、最後にもう一度ドレミファソラシドで締め括るのです。一体全体、ドレミファソラシドだけで作曲した音楽家が他にいたでしょうか。大抵はもう少し芸のあることを披露したくなるものです。シンプルすぎます。それでいて退屈しないのです。なんとも大胆な試みです。こんなことができるのは相当の人格者に決まっています。

 

今日のハイドンは無口でニコニコと穏やかに笑った高僧のイメージでした。気持ちの良い気が体の中を通り過ぎてゆきました。

 

 

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