会話の神秘 その6

2011年2月16日

シュタイナーの勉強をしているときに、授業というのは対話というものに近いものなのではないか、そんなことをよく思いました。

教壇に先生が立って、下に向かって生徒に教えるという形の授業はもう時代遅れで、何か新しい形が模索されるべきだということをです。

一体それがどういうものか、まだ時代が模索しているような気がします。

 

しかしドイツではシュタイナー学校に限らず低学年の授業が「先生・生徒」という対立する形、緊張を強いる形を崩し始めています。とてもいいことだと私は思います。お互いが親しい関係になって、生きることの力をそこから学ぼうとしているといえるのかもしれません。

 

点数のために勉強するということは、本来の勉強ではないということがだんだんとわかりかけているのだと信じたいのです。

私たちが人と話をするのは自分を解放したいからです。自由になりたいからです。

この解放とか、自由というものが実は自我の一番の仕事のような気がします。

解放というのは、放っておくとか、発散するということではなく、そこから一番自分らしい自分の姿が見えてくるということです。それこそが自我の姿です。

何かのまねをする、何かのためにする、恰好を付けるというのは一番不自由なものです。そこから解放してやらないと自我は本来の呼吸をしていないということです。思春期を生きている人たちによく見られるものです。

 

思春期というのは自我がまだしっかりと呼吸をしていない時期で、窒息している様な気がします。

そのためにはもっと他人と話しをしなければならないのだと思います。

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