井上陽水は「わからない」を生きています

2021年4月7日

不思議なミュージシャン、不思議な歌い手、不思議な詩を書く人。井上陽水という人は実に興味深い人です。そして謎めいたよくわからない人です。

有名なLPアルバム「氷の世界」は歴史に残る歌曲集と呼ぶに相応しいものだと思っています。ですから最高の賛辞で評価したいのです。

井上陽水の手になる歌詞は大抵意味を掴みかねるものですが、それでもどこかでわかるような気がするという、普通の歌の歌詞からは想像を絶するところにある内容です。もちろん直接的に訴える歌詞もあります。若い恋心の綾を表現したものもあります。

 

日本の言葉を巧みに組み合わせ、そこから魔法のような意味が浮き上がってくるのですが、これは井上揚水の発明ではなく、日本語がそもそもは得意にしているものではないかと思っています。そういう意味で井上陽水というシンガーソングライターは日本語の伝統の中にいて日本語の宝庫から彼に相応しい言葉を拾い上げてくる天才です。ということなので、本当は真っ当な日本人詩人、正統派詩人といってもいいのではないかと思っています。その上で、井上陽水からしか出てこないイメージと言葉の組み合わせを楽しむと、却って日本語の面白さ、ユーモアに気づかされることがたくさんあります。非論理的な日本語からしか生まれない魔法です。

詩人井上陽水の大先輩は誰かなんてことを考えてみました。俳句の松尾芭蕉のような、何度も編集し直して言葉を磨く詩人ではないようです。私には万葉歌人の柿本人麻呂が浮かんできます。人麻呂は万葉の時代にも失われつつあった長歌の詩人です。5・7・5・7・7という和歌以前の形です。それだけでなく、枕詞という今日ではただ形式的なものとしてしか理解されていないものを縦横無尽に駆使して、ある時はほとんど「枕詞と被枕詞の掛け合い」だけで歌にしてしまう、名人というのか、狂気に近い言葉の魔術師なのです。

 

井上陽水の詩には社会とか人生の日常からの言葉が散りばめられていますが、全く現実主義者というのではなく、社会へのメッセージでもなく、説教でもなく、写実主義的なもので終わるのではなく、逆に現実から私たちを異次元に放り出してしまい、知らず知らずのうちに私たちはそこにたどり着いてしまうのです。このギャップは俗にいう矛盾などというものではなく、人生がそもそも「わからないもの」だということに帰するのです。

井上陽水が井上陽水である所以は、彼が自ら作曲し、それを歌う歌手だということで、ここから完成することがない未完成が生まれるのです。聞き手からすれば、いい歌だ、完成したものだとなるものでも、作った本人にしてみればいつも未完成な状態にあるのです。

 

今度は井上陽水と比べられる音楽家は誰かとも考えてみました。もちろん彼が若い時に憧れたビートルズを挙げるのが正当なのでしょうが、私にはそれよりも「氷の世界」を作った井上陽水に「美しき水車小屋の娘」「冬の旅」を作ったシューベルトを重ねたくなる衝動があります。シューベルトは彼の歌を歌う歌手が出てくるまでは、シンガーソングライターで自分で歌っていたのです。そして彼の歌を聞いた友人たちは、その後現れた名の通った歌手の歌より、シューベルトが自分で歌った歌が一番心に沁みたと言っています。今では声楽家たちがドイツ歌曲として立派に歌っていますが、本当のシューベルトの歌はもっとシンガーソングライター的な世界ではないかと思うのです。

 

さて井上陽水の世界ですが、この魅力はなんでしょう。

一つはユーモアです。どこかいつもユーモラスです。それ以上に上等なユーモアに満ちています。深刻なことを歌いながらも、深刻ではないのはユーモアがあるからできる技です。自分自身を笑える余裕はユーモアからです。

あの万華鏡のような言葉の繋がりから、ユーモアによって誰にもちゃんとはわからないのに、みんながそれなりに分っている、曖昧な世界が生まれているのです。しかしその曖昧は井上陽水の言葉の綾にかかって真実を突くのです。

 

 

 

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