文化系それとも理科系

2021年1月14日

古代インドでは数学も天文学も韻文、つまり詩の形をもった文章、で表されたのです。数学の元になる計算は理科系ですがそれを表す段になると文化系ということです。

小学校の先生とお話をしていて、「算数の問題を理解できない子どもが結構いるんですよ。算数は機械的な計算だけではないです。応用問題は国語の読解力の問題ですから、基本は文化系かもしれません」と苦笑いをしていらっしゃいました。

生物学者の福島伸一さんが、自分は理科系ではなく文化系ですと言っていました。研究の方法は理科系だと思うが、研究の成果を報告する際の文章のこともですが、生物という特殊な分野に限らず文化現象という観点から捉えると文化系だということで、自分は実は文化系だったんだと気づいたのですとお話ししていました。

理科系、文化系といいますが、元々は西洋的な区分から生まれてきているはずです。ということはそもそもはロゴスというところにたどり着くということです。以前のブログでも扱ったロゴスですが、今は「言葉」と訳されることが多いです。新約聖書のヨハネ福音書の冒頭の「初めに言葉ありき」の言葉はロゴスです。しかしロジックという言葉の意味は論理的ですが、元になっているのもこのロゴスだとすると、ロゴスは論理的であることをも意味しているわけで、「初めに論理あり」でも正しいと言うことになります。言葉か論理か、まさに文化系か理科系かの争いがそこにもみられます。

言葉も文法という整理の仕方に当てはめると論理的な姿になりますから、あながち文化系のものとも言い切れないようです。

理科系、文化系はある意味では左脳と右脳という分け方にも通じるものですが、理科系の人が左脳だと決めつけるのは危険で、数学、物理学などの偉大な発見は例外なく直観からです。ということは右脳的だということになります。

文化系、理科系という分け方には大した根拠がなく、現実には混沌としているようです。

さてあなたは理科系ですか、文化系ですか。

声に聞くユーモア、レオ・スレーザークの「夜と夢」

2021年1月13日

レオ・スレーザークと言ってわかる人が少ないことは知っています。こんな知る人ぞ知るような歌い手のことを書くのは忍びないのですが、彼は私がドイツ歌曲を歌った歌手の中で一番感動した歌い手だと言うことで紹介したいと思います。幸いYouTubeでも検索できるので思い切って紹介します。

一世を風靡した超一流のテノールです。古今東西、どこを探しても彼のように歌える人はいないと太鼓判を押します。私にとって、シューベルトを歌わせて、彼の追随を許す者はいないと断言します。評価する人は最高の賛辞を送って褒めちぎるのですが、そうでない人は今更こんな歌い方は古臭いといい、俗な節回しでヤクザな歌い方だといいます。もちろんこっ酷く貶す人もいます。それでも私には最高の歌い手です。

最近は声を楽器のように訓練することが支流ですから、声が楽器のようになってしまいました。声は楽器とも機械音とも違う有機的なものですから、本当の声に出会ったときの喜びはひとしおです。発声法で作られた大抵の声は作り声に聞こえます。声学的に発声を学んだ声ですが、実は技術の方が聞こえてきて、歌がほったらかしになっていたりします。

スレーザークの歌を聴いていると思わず微笑んでしまいます。ドイツの歌曲を聴いている時にこんな経験はスレーザーク以外では起こらないことです。皆さん真面目に歌い過ぎているのではないかと思います。

YouTubeで「レオ・スレーザーク」と検索すれば、Nacht und Treume(夜と夢)、Litanai(連禱、祈りの歌)Du bis die Ruh(なんじこそ憩い)などが出てきます。まず何よりもNacht und Trueme(夜と夢)を聴いてみてください。

スレーザーク自身、シューベルトの歌曲を特別なものと感じていました。「ミサをあげるような気持ちで歌う」と彼の自伝で書いているほどです。言葉通り確かに深い祈りでシューベルトの歌に向かって、心を込めて丁寧に歌いあげます。そこにはホットできる音楽空間があるのです。「リタナイ」という祈りのうたは、日本で言えば連歌のような作りの、ある詩の形が繰り返され、連綿と祈りを捧げるのですが、スレーザークの歌には、10世紀11世紀頃のヨーロッパの宗教画のような、ユーモラスな明るさがあって、詩に歌われている人たちは、彼とシューベルトに祈られて本当に成仏しそうな感じがしてきます。

スレーザークは特異な歌い手ですから位置づけは難しいですが、歌曲の歌い手としては唯一の例外と言った方がいいと思います。経歴も特異です。もともとは園芸家で、音楽学校とは無縁です。街のコーラスで歌っていたところをスカウトされ、頭角を表し、マーラーに見出されウィーンのオペラで歌っていました。メトロポリタンにも招待されトスカニーニの指揮でも歌っています。

彼の歌う「夜と夢」は夢の中を、彼の歌声といつしょに彷徨っているような気分になります。実に不思議な体験です。気持ちの良い無重力状態の中を彼の歌声とともに彷徨うことができるのです。このように歌えるのは、歌の技術ではなく、スレーザークの心の豊かさからです。歌が彼のように聞き手を掴むことは、ほとんどあり得ないことだと思います。歌を音楽として表現しているなんて言う技術的なものではなく、歌を、音楽を具現しているのです。歌になりきつていると言ってもいいのかもしれません。歌の神様とでもいいたくなるような姿が目の前に浮かんできます。

 

ユーモア探しの旅

2021年1月11日

年初めにユーモアをテーマにした小説を読んでみたいといろいろと考えたのですが、思い当たりませんでした。

なんでだろうと不思議でした。そこでなんでユーモアは小説を始め文学のテーマにならないのだろうと考え始めました。

 

最近のテレビはお笑い芸人の独壇場になっています。私なりに納得しているのは、彼らの話術の力による体ということですです。アナウンサー仕込みの人が司会するのと、お笑い芸人ではずいぶん違います。どちらも話し方を学び習得した人だと思うのですが、ベースが違うからでしょう。

アナウンサーはニュースを読む人です。ニュースの原稿を読みそれを誠実に聞き手に伝えるのが仕事ですから真面目さが売りです。ニュースを聞いている人がそんなの嘘だろうと思うようではアナウンサーとしては失格です。アナウンサーは朗読のようなもの、あるいは聞き手役としては向いているのでしょうが「場」を作って楽しませる話術の持ち主ではありません。

ところがお笑い芸人は、芸柄本当のことを言っているのか嘘かがわからなくてもいいのです。嘘でも本当のように言えなければなりません。落語や漫才などで話されている話しを頭っから信じる人はいません。大切なのは「場」です。その場で聞き手を楽しませればお仕事が果たせたことになります。そうして作られた「場」で話を聞いていると、本当に楽しいものです。寄席や演芸場に今でも足を運ぶ人がいるのは話術によって生まれる「場」を楽しみたいからです。

 

ではユーモアはどこで味わえるのでしょうか。面白おかしいだけではユーモアではありません。ユーモアは存在の中にあるので、例えば真面目なアナウンサーでも、その人の性格や人格から余裕のある話し方にユーモアを感じることもあれば、真面目さの間からユーモアがのぞいていたりします。笑わせ上手な芸人の話が押し付けるような、聞いていると苦しくなってくるようでは、話題はおかしくても、ユーモアを感じることはありません。小説やお芝居でも、題材が面白おかしいということだけではユーモアにはつながらないのです。

私は芸術の中で一番ユーモアがないのは音楽だと思っています。特にクラシック音楽にはユーモアが聞かれません。我が家のお寺さんは谷中という上野と日暮里の間にあり、行きは日暮里からで、帰りは歩きで上野経由です。その途中に東京芸術大学があり、道路を挟んで、美術系と音楽系に別れています。歩いている学生がどちらに入るかでどちらが音楽系で、どちらが美術系かはすぐにわかるのです。くどくどはいいませんが、音楽系はすっきりとしているのに、美術系は近くのホームレスの人とあまり変わらない格好でいつも大きな、時にはゴミのような荷物を抱えています。音楽というのはとても合理的な法則のもとにあるものだということがそれをみてもよくわかります。現代音楽はその法則に逆らって音楽を作っているのでしょうが、その法則が音楽なので、現代音楽は音楽と称しているものの本当は美術系なのかもしれません。ともあれ音楽にはユーモアがないのです。音楽から深い祈りを感じたりすると。音楽を聴いて良かったと思いますが、ユーモアを期待して音楽を聴くことはありません。

漫画という言葉にユーモアを感じるのですが、漫画の始まりは鳥獣戯画なので、実は真面目な風刺的なものだったのでしょうか。漫画というのは、子どもの頃は、滑稽なもので、肩の凝るようなものではない、面白おかしいこと、気休め的なことの総称だったように思っていました。今日の漫画の原点は明治に入ってからの輸入物だったのです。漫画というと北斎漫画が有名ですが、北斎のは日常生活を漫然と書いたものという意味のもので、直接漫画とは関係ないものです。最近はアニメという呼び名に変わり、文学以上に文学的な、哲学以上に哲学的な作品もあり、映画化されるものを少なくありません。アニメは漫画というイメージから想像できない世界に飛び出して行きました。こうしてみると漫画の世界にもユーモアがあるとは確約されていないようです。

 

ということで今年もユーモア探しの旅は続きそうです。