楽器の音、静かな音とうるさい音について

2021年1月20日

楽器の音と騒音・雑音とは何が違うのですか。よく聞かれます。分かっているようで、うまく言葉にならないものです。

私は「うるさいか、うるさくないか」というのが基準になると思っています。ひとまずは、騒音・雑音は「うるさい音」で、音楽をする楽器の音は「うるさくない音」ということになると思います。ところが、実際にはそう簡単に整理できないものです。

 

お隣さんのピアノの音をうるさいと訴える人がいました。ピアノの音で殺人事件にまでなったケースもあります。ピアノだけではなく、ライアーの練習をホテルの部屋でしていて、フロントから「同じフロアーのお客さんから苦情が出ています」と言われた人もいます。私も時々ホテルの部屋でライアーを弾いたことがありますが、今のところ苦情を言われたことはありません。

楽器の練習は、本番の時とは違って音が出来上がっていないため、そばで聞いている人にとっては神経に触るもので、ライアーという本来は子どもを落ち着かせたり、眠らせるためにできたような楽器でも「うるさい音」ということになってしまうのです。

 

音楽が嫌いな人にとっては如何なる楽器の音も、静かな音のする楽器も、また練習であろうと本番であろうと「うるさい」もので、そこに焦点を合わせたら、このブログの話が進まないので、この人たちのことはここでは除外することにします。

ということで、うるさくない音について考えてみましょう。

私は音楽が好きで、色々な音楽会にわざわざお金を払って行っていました。今はコロナ騒ぎでコンサートが無くなってしまいましたので、もっぱらレコード、CD、ラジオで音楽を聞いています。

わざわざ、券を買って、会場まで足を運んだ演奏会で失望するだってあるのです。前評判がよく、久々に現れた天才などと言われている演奏会の時にも失望はあり、その時は腹立たしく思ったりしました。

立腹の原因は「うるさい演奏会だった」ということです。一般的には天才的な演奏ということになっていても、私にはうるさかったのです。

 

音楽を聞く耳が肥えてくるという言い方は、味覚が、舌が肥えているというのと同じです。経験を積んでゆく中で、音楽なら良い音、味覚の世界なら良い味がわかってくるのです。

聞く耳にしろ舌にしろ肥えてくると、「うるさくない」ものが見分けられるようになります。そして「静か」というところに焦点が合うようになります。味が静かとはあまり言わないですが、上等な味は「静か」なものです。「うるさい味」は、食べてすぐ味がしてしまうものですが、「静かな味」は食べすすむうちにだんだんと味が深まってゆくのです。私は「うるさい味」は味ではない思っています。それは刺激といった方がいいものです。音楽の音も「うるさい音」になると刺激的になって神経が苛立ってきます。

 

楽器を演奏するとき、楽器が持つ音に負けてしまうと、それは「刺激的な音」、「うるさい音」の部類になってしまいます。いくら楽器が上手に弾けても、楽器の音に振り回されている間は「静かな音」にはならないのです。では「静かな音」にするためにはどうしたらいいのかということになります。楽器の音を、演奏者の心で消化するのだと言えると思います。消化することで、楽器の音が、演奏者の音に変わります。食べ物の場合消化するというのは、粉々に分解することです。演奏者は楽器の音を、消化するために、音を一度殺してしまわないと、自分の音にならないことを知っておくべきです。楽器が作る音をまず粉々に分解するのです。音を殺すとは人聞きはよくないですが、それ以外に言いようがないので使います。楽器の音を殺さないといつまで経っても、楽器の音しかしない平凡な、つまらない演奏のままなのです。

私の大好きな、最も尊敬しているチェロを弾く人のチェロの音は、エマヌエル・フォイアマンのことです、燻銀のようなチェロの音で、一番チェロらしくない音かもしれません。チェロの音がこれでもかと鳴っている人のチェロとは間反対の、チェロらしからぬ音のチェロなのです。私はそれが最高のチェロの音だと思っています。

楽器の演奏には落とし穴があって、誰もが上手になりたいわけですが、この「上手に」というところで止まってしまうと、技術は上達してもただのチェロの音を引きずったままなのです。消化されていないうるさい音ということです。「上手に」のもう一つ上があるのです。音を殺して蘇らせることができているかどうかということです。それが楽器を静かに弾けるかどうかということなのです。

静かに弾ける人の音は、大きな音がしても静かなのです。

うるさい演奏家は静かな楽器で、静かに弾いてもうるさいのです。

気質は生きるためのヒントになるものです

2021年1月17日

まず大枠から話すと、気質は乗り物のような物です。

観光で外国を旅行している時に、その街を歩いて歩いて歩き回るか、最近は自電車のレンタルも盛んなので自転車を乗り回すか、それとも国際免許にしてきたので車を借りるか、それとも言葉もわからない外国なので旅行者のための一日観光のバスに乗り込むかみたいなところがあります。どんな方法でもそれなりの体験が得られるので、どれがいいとは簡単に言えません。

健康状態も影響しますから、何がなんでも歩かなくちゃ街は体験できませんと押し付けるわけにはゆかないのです。自転車が苦手な人もいます。車の運転はできても知らない街を走る時は相手の車の動きが読めないので(外国では特に)観光どころではなくなってしまうと考える人もいます。観光バスは行先が決まっているけど、乗っていれば着くので観光にはもってこいと考える人もいれば、それじゃテレビの観光案内と変わらないとぼやく人もいます。その人にふさわしいも方法を選べはいいわけなので、どれが一番いいという押し付け的な考え方を捨てなければならないのです。

 

気質は四つあるとは言っても幕内弁当のように区分けされているのではなく、水の中に四色の色を流し込んだような感じですから、純粋な色のところもあれば混ざっているところもあるので、血液型による性格判断とは違います。

それと一人の人間の中で、年齢によって変わることもあります。私の経験では、小学校の高学年の時に性格(実際は気質です)が変わったという人に何人か出会ったことがあります。この変化は、家庭環境に大きな変化があったために変わったというのでもなく、大病や事故で生死を彷徨った後変わったというのではなく、特に外的な変化があったわけではないのに、成長という流れの中での変化です。

 

さてみんなそれぞれの気質を持っています。混ざり具合で出てくるため、一つの気質だけを際立てている人の方が珍しいので、大抵はミックスされた気質です。気質という言葉が「混ざり具合」という意味です。それでも強く出ているものがあるので、それを外から見た時にあの人は何気質だと言われるのです。

ただ自分で「私は何気質だ」と思っているのと。他人が見て判断している気質には大抵違いがあります。それと他人でも身内のように毎日接している家族が見ているのと、全くの他人とでは見方が違っているものです。

個人的に私は「隠れ胆汁」と言っていた時期があったのですが、家内に言わせると「どこでお隠しになっていらっしゃるのですか」ということだったので、それ以降は「隠れ」を省くことにしました。

ある時、私から見たら100%の憂鬱」だと思っていた人と話していて、「私は多血だから」と本人が言った時に腰が抜けるほどびっくりしたことがあります。でもよく体験するのは、外から見た気質と反対の気質を本人は自分の気質と信じていることです。

ということで、ある人の気質を決めることは、難しいということです。この難しさは、気質が固定したものではないというところからきます。それと人間は希望的に生きているので、先ほどの憂鬱の人が、内心で多血的に少しおっちょこちょいな性格があったらと思っているので、「私は多血なので」という言葉なるのかもしれません。

 

ただ気質で一番はっきりと、これだけは相当具体的なのは、同じ気質同士はお互いにとてもイライラしているということです。親子でも似たもの同士の気質の場合、関係が非常にこんがらがってきます。同じ気質の夫婦は長続きしないと思います。職場でも同じような気質の同僚にはいつもイライラしています。これを巧みに使ったのはシュタイナーです。教室では隣に同じような気質の子どもを座らせるという方方法を提唱しています。

なぜこうするのかというと、気質というのは基本的には癖と非常によく似たものなので、成長とともに、突出した気質などは、大人気ないということなのです。何かことがあるたびに「これが私の悪い癖なのよね」と簡単に逃げる人がいたら、周囲は「なんと情けない人だ」と思うでしょう。つまり気質丸出しなんて、大人になったらみっともないものなのだと知っておくべきなのです。「私粘液質だから、いつも周りのことに気がつかないでごめんなさいね」などと言っているのはただの言い訳で、大人げないのです。

同じ気質の持ち主は、例えば胆汁気質の場合だと、イライラしながら、突出したところを削り合っているのです。憂鬱気質で深く沈んでしまう傾向の二人が一緒にいる時に「あんたそんなに悩んでいないでもっと軽く生きなさいよ」と励ましていたりするのです。多血同士が隣に座っていたら「お前少しは落ち着けよ」と同じくらい落ち着きのない多血質の人が説教したりするのです。

私たちの心の癖は、病は気からの言葉通り私たちの健康にも影響します。気質と健康は細かく見ると、薬の使い方などを配慮する時にも考慮されていいものなのですが、それは相当専門的な知識と経験を必要とすることなので、ここでは触れないことにします。

ということで、気質のことを簡単に整理してみました。

何か皆さんの生活に役立つものがあることを祈っています。

歌と器楽曲とのちがい:将来の音楽は?

2021年1月15日

クラシックの音楽の世界では、特にオーケストラから見た時、歌は嫌われ者なんです。歌曲の夕べには人が集まらないのです。クラシック音楽の世界に深入りしていない人には驚きでしょうが、クラシック音楽から歌が消え、主流は器楽曲だと言って間違い無いのです。

クラシック以外のジャンル、ポピュラー音楽、ロック、ポップ、昔のフォークソング、シャンソン、カンツォーネ、ファド、歌謡曲、演歌を見ると違います。こちらでは、全く逆に歌が主流です。歌がないなんて考えられないのです。

ドイツの教会でもよくゴスペルソングが歌われています。パイプオルガンでのミサの時はやっと十人くらいなのに、ゴスペルでやる時には教会に人が入れないほど集まります。どう説明したらいいのでしょう。

ジャズの世界はユニークです。歌もありますが、楽器だけで演奏することも随分あります。ピアノソロ、ピアノトリオ、プレイジャズ、デキシー、ビックバンドなどです。ジャズとクラシック音楽は、驚かれるかもしれませんが、とても近いものなのです。ジャズの発生はアフリカからの人たちの音楽ということになっています。それはそれで確かなのですがジャズの音楽的発展はクラシック音楽が当時随分関わっていたのです。ヘンデルの和音、グリークの和声というものが影響してジャズに音楽的多彩性が生まれました。そういうことから器楽曲のジャズが栄えたのかもしれません。

オーケストラの歌嫌いに話を戻しましょう。声という有機的なものと楽器という純粋な道具の間には亀裂があるのでしょう。まず声は楽器よりも音程がとりにくいため、歌は不純な音楽に聞こえるらしいのです。また歌い手の呼吸が作るリズムと楽器からのリズムの違いもあるようです。とにかく、器楽曲に比べて歌物は不純な二級品扱いなのです。

もしかすると産業革命以降の機械中心への移行が音楽にも影響しているのかもしれません。手工業から機械が物を作るようになったことです。音楽史的に見れば、クラシック音楽の中で器楽曲が主流を占めのはバッハ以降のようです。そういう意味でバッハは近代音楽の父なのでしょう。現在でもバッハは最高の音楽家として君臨しています。

クラシック音楽は教養人、インテリの人たちの音楽で(もしかしたらハイソサエティーと言い換えてもいいです)、歌に象徴されるポピュラー音楽は庶民の音楽という図式が結構根強く生きていると思います。今のクラシック音楽は政治家たちの発言があって、国や地方自治体の膨大なる援助で賄われているのが現状です。もし若い人たちに、「クラシック音楽のために今まで通りに莫大な補助金を続けることに賛成か反対か」と投票させたら、そして、その結果が実際に政治に生かされたならば、コンサートホールもオーケストラも、妄想ではなく、確実に近い将来消えて無くなってしまうかもしれません。

ヨーロッパの音楽の始まりは、言葉、歌、踊りという人間の生活に密着したところからでした。それが今日のヨーロッパを中心にしたクラシック音楽へと発展したのです。今度は器楽曲という観念的になった音楽をもう一度日常に返す流れが生まることで変革が起こるかもしれないと考えます。