ロゴスは言葉と数字と思考ともしかしたら嘘諸々の混ざったものです

2020年11月23日

ヨハネ福音書の冒頭の、初めに言葉ありき、はじめに言葉があった、というのは正しく訳されているのでしょうか。私は違うと考えています。

ここで言葉と訳されているのはロゴスです。ということは言葉に限ったことではないはずなのです。ロゴスということはギリシャ語で、数学、論理、思考、そして嘘と言った幅広い世界を言い表していて、言葉と訳されては誤解を招いてしまいます。特に現代人は言葉は単に記号的に意味しか読み取りませんから、ロゴスが言葉ということでは、聖書が言いたいことが正しく伝えられていないように思うのです。

では初めに何があったと言えばいいのでしょうか。

広い意味で知性です。人間を知的なものだと言いたいのだと思います。それを神様からもらったということです。ギリシャ語のソフィア、叡智からきているのかもしれません。旧約聖書では林檎を食べたアダムとなります。

 

二千年の間キリスト教社会はロゴス、すなわち知性を膨大なエネルギーを費やし切磋琢磨したと言えます。18世紀にフランスで興った主知主義は知性偏重極まりないものですが、これも典型的なキリスト教文化の落とし子だと私は考えています。

知性は人間の能力の一つに過ぎないということは忘れてはいけないことで、特に傾くと、無駄を省く合理的な世界に向かって進むことになります。人間性が知性に占拠されて他の能力が退けられてしまい、人間存在が痩せ細ってしまったように思えるのです。そして合理的であることを極めるとどうなるのかというと、怠惰という落とし穴に落ちてしまいます。自分でしないで済むように考えるのです。

二千年の合理化の歴史は機械作りに専念したと言えるのですが、要は機械に働かせるのです。自分が楽をするための機械作りです。コンピューターもそうした機械づくりの一旦だと私は考えています。

合理的というのは便利とも言い換えられます。現代社会は便利の追求にイトマがありません。生活はますます便利になってゆくでしょう。

マルクスの思想をここで引き合いに出すと驚かれるかもしれませんが。マルクス思想は合理主義を極めたものです。この思想は宗教をアヘンだとか言って切り捨てていて、キリスト教思想とは別のように振る舞っていますが、私はキリスト教思想の行き着いたところがマルクス思想ではないかと考えています。この思想は超合理的と位置付けてもいいようです。人間を平等に扱っう社会を理想としているてころは実に合理的に考えられていますが、現実には全く逆のことが起こっています。ロゴスに含まれる嘘が頭をもたげ、合理主義の矛盾を垣間見せます。

知性は極まると自己壊滅という道を歩み、せっかくの知的能力をも食い潰してしまうのです。それだけでなく、もしかすると人生そのものをも食い潰してしまうのかもしれません。

知性にブレーキはかけられるのでしょうか。

初めにロゴスありきということで始まった今までの二千年ですが、次の二千年にはロゴスを超えたものが必要です。それが知性にブレーキをかけてくれるものだと考えます。

ロゴスは神様から与えられたものです。神様は次に何を用意してくれているのでしょうか。知性を超えるものと言うのはどんなものなのでしょうか。

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