2025年5月11日
娘がシュトゥットガルトの放送局でオーケストラのマネージメントに携わっている関係で定期公演の年間チケットで毎月コンサートに足を運んでいるのですが、どうも最近は感動することが少ないように感じるのです。昨日もオーケストラの音楽を聴きながら、原因が私にあるのか、それともコンサートという形式にあるのか、それとも音楽そのものにあるのかを考えてしまいました。
特に昨日の演目はとても偏っていて、今も生きている現代作曲家のものが三つのあとにドビッシーの海でした。現代音楽に偏見を持っているわけではないと思うのですが、聞く度に「何を伝えたいと思っているのだろうか」ということが脳裏を掠めるのです。音楽はその時代を如実に反映している物だと思っているので、現代音楽は現代という事態を反映している物なので、現代という混沌とした時代そのものだと言って仕舞えば、全く時代を反映している音楽として評価すべきものと言えます。
しかしそれだけでは芸術というものの役割の半分しか果たしていないように思うのです。芸術は時代を反映していると同時に未来を指向するところにその存在意義があるので、その意味で言うと、現代音楽は今の混沌を反映しながら、そこに未来を暗示するものがあってほしいのです。こんな時代に未来なんかないと行って仕舞えば身も蓋もないのですが、それは一般論で、芸術家であると自負するならば、それでも未来が暗示できる人であってほしいのです。時代を反映しているだけであれば、自分に翻弄され漂っているだけなので、そんなのは目の前にあるのであらためて音楽で聴くこともないのです。
今回の演奏会を通して強く感じたのは、現代音楽というのはとても知的なものだと言うことでした。終始感じていたのは知性の産物だということでした。それは現代人の思考というものがもっぱら知性からのものに頼っているのと見事にシンクロしていたのです。そこに気づけたことが今回の音楽会の一番の贈り物です。
思考というのは、私の感じるところでは、知性を超えているものなのです。知性が思考を操ると、思考は知性が好む辻褄の合ったもの、論理的なもの、合理的なもの、証明できるものに陥ってしまいます。理屈にあっていることが思考の中心に居座ってしまうのです。思考はそんなつまらないものではなくて、もっと大きなところから力から力をもらって羽ばたいているものなので、辻褄が合わなくても良しと言えるものなのです。
思考は、想像力、直感、直覚から流れ込んでくるものから成り立っているものだと私は信じています。ですから辻褄というものや、証明という手続きに捉われないで、矛盾したものを含んでいて当然なのです。思考が辻褄合わせや証明することに囚われていたら、結果は明瞭です。窒息してしまいます。未来に向かって思考し始めるとそこには可能性というものの中でものが展開されてゆくことになります。未来は可能性ですから、未だわからない未知なるものであって、分かるということだけではなく、分からないこともそこには当然居場所があるのです。
今回、三っの現代音楽を聴いていて脳裏を掠めたのは次のようなイメージでした。もし大都会の全部の道路が行き止まりになってしまったら、というものでした。道路は次へ次へとつないでいるものなのに、どこかで行き止まりになってしまうと、向かう次が閉ざされてしまい立ち往生の状態になります。昨日聞いた音楽はまさに立ち往生状態でした。次に行く道が見つからないのです。ヒステリーになったり、落ち込んでしまったりの繰り返しで先が見えないのです。現代音楽が時代を反映しているものだとすれば、今思考が知性に振り回された結果、思考の道が行き止まりになっていることを警告しているのかもしれません。このままでは思考が危ない、窒息してしまう。思考を救わなければと身をもって音楽を通して言っているのかもしれません。ただ今は残念ながらまだ警告で終わっているようです。
2025年5月8日
AIにお伺いを立てることは今や常識になっています。それが有効な手段であることはいろいろな分野で証明されているわけです。膨大な経験値は一人の人間の経験を遥かに超えたものなので、情報量からすれば一人の人間が太刀打ちできるものではないのです。
しかしそのAIにできないことというのもあるはずだと考えていて思いついたのが、恋文、つまりラブレターです。
最近は出会いのアプリケーション、マッチングアプリというものでパートナー探しをする人が増えています。私の周りにも何組がのカップルがそのアプリで知り合ってめでたく結婚というゴールにたどり着いています。私の周りを見る限りでは、それらのカップルはみんな幸せになっているようですから、さがAIの情報処理の能力の高さが窺い知れます。
私の母方の祖父母はお仲人さんをよくしていたと母からよく聞貸されていました。母に言わせると、縁を結び付ける才能があったということですが、結婚にまでたどり着くのは、好き嫌い、惚れた腫れたの恋愛とは違って、絆のような縁によって結ばれていると感じることが多いです。最近は、日本だけでなく世界共通の現象として、若い人が結婚しない傾向にあるようです。となると老婆心から恋愛の方も消極的なのかと心配になります。若い人には「命みじかし、恋せよ少女」ではないですがたくさん恋をして欲しいものです。
昔は恋を打ち明けるのに手紙を書いたのです。ラブレターというのは恋に落ちてしまった人が、そのお相手さんに向けて、思いのうちを情熱的に綴る手紙です。いろいろな手紙がありますが、人生で一番思い出に残る手紙かもしれません。今のご時世からすると、きつとラブレターなんかも書かないで人生を終わってしまう人が増えているのかもしれません。しかし人を恋するということが時代によって増えたり減ったりするというのは考えに食いものです。そんな中でも、ふと恋に落ちてしまったら、手紙にこだわらずにメールでもいいのですが、思いを文章にして綴ろうと思ったりするわけです。しかし手紙も書き慣れていないわけですから、恋に落ちたからといって突然文章が書けるようになるわけではないので、悩んでしまいます。そこで助っ人にAIが登場するのでしょうが、果たしてAIにラブレターなるものが書けるのかどうかは難しいところです。それでもこちらからこのように書いて欲しいという希望をはっきり示せばなんとかやってくれそうな気がするのですが、その文章をお相手さんが読んで、どう感じるのかは、私には想像がつかない世界です。
ラブレターは一般論ではダメなわけです。「あなたのような方はきつとたくさんの人から好かれていらっしゃるのでしようね」、なんて書かれてもお相手さんは嬉しくもなんともないはずです。恋に落ちてしまった一人の人と、好かれてしまった人との初めての、そしてもしかしたら最初で最後の手紙かもしれないのですから、極めて主観的な面を打ち出し「あなたは私の太陽だ」的な大袈裟なことを恥じらいを含めて堂々と書くのがラブレターのはずです。
私は一度しかラブレターを書いたことがない上、その恋は実らなかったですから、ラブレターの失敗作しか書いていないということになり、偉そうなことは言えないのですが、これからラブレターを描こうと思っていらしゃる方にはぜひ成功作を書いて欲しいと物だと願っています。ですから、AIにどのようなラブレターにしたいのかの意向を、詳しく具体的に伝えられないとダメなわけですから、しっかりと自分の気持ちを整理して、しかも相手がどのような受け取り方をする人なのかも、わかる範囲で伝えれば、とりあえずはラブレターにはなると思います。
私はラブレターをもらったことがないので、ライブレターの効用というのか威力に関してはよくは理解していませんから、ただ正直な思いを伝えることを努力すればいいラプレターになるようになると素朴に感じています。
さて実践的にということで、練習のために、まずは自分に向けてのラブレターをAIに作ってもらってはいかがでしょうか。自分だったらこんなラブレターが欲しいとAIに伝えて、架空のお相手さんに、自分向けてのラブレターをAIに書いてもらうのです。それを自分で読んでグッとくるような気迫を感じるようでしたら、相手に向かって書くラブレターも成功率は相当高いと思っていいと思います。
ただやはりラブレターはAIの苦手な分野ではないかと想像します。情報量がほとんど役に立たないからです。加えて徹頭徹尾個人レベルの話ですから、主観で始まり主観で終わるようなラブレターはもしかしたら人間にしか描けないものかもしれません。恋は盲目なのですから、AIのように覚めた世界には恋などという愚かな仕業は存在しないのです。
Aしお手本として参考にできるようなラブレターはたくさん書けるかもしれませんが、一人の人のハートを射るような名句が作れるものかとなると、苦戦を強いられそうで相当難しいのではないかと想像します。ただそういうものを集め、パターン化して、ラブレターの書き方のような本を作れば商売になるかもしれません。
ラブレターとAIの組み合わせはよくない組み合わせのような気がしてならないのです。
2025年5月7日
音楽の音というのは特別な音で、自然界に存在する音とは違うものだと思っています。
一番の違いは、演奏する音が、演奏者の命の中で一度死んでいるということです。死というプロセスを通って蘇った音のことを、私は音楽の音とだと考えています。
この音に気づいている人は多くないのですが、音楽をする上でこの音は演奏する人の無意識の中で憧れなのです。本当の音、生きた音というのはただ楽器を弾いただけでは生まれないものです。名器と言われている、優れた楽器を弾けばいい音が出るのは当然ですが、それだからといって、それだけで生きた音にはならないものなのです。かえって優れた楽器に振り回されて、その楽器を弾くことが大切なことになってしまうと、音楽は退屈なものになってしまいます。まさに「弘法筆を選ばず」が書の世界だけではなく音楽の世界にも言えるのです。もちろんいい音のする楽器で演奏することは演奏者にとっての楽しみではあるのでしょうが、しかもそれが名のある名器であったりすると、それが自慢の材料になりますから、なんの楽器を使っていますと人に知ってもらいたくなるのでしょうが、それては本末転倒です。ちなみに私の今までの感触では、名のある名器は音が鳴りすぎるのでどちらかと言うと苦手です。
有名な弦楽器て演奏されたものでも心に残るものはあります。心に残るようなものは、チェロのエマヌエル・フォイアマンとヴァイオリンのダヴィット・オイストラフの二人です。楽器に負けていないところが素晴らしいと思います。彼らの存在が伝わって来る演奏で音がとても透明です。よく鳴る名器で演奏する時ですら音を一度死のプロセスから蘇らせ、彼ら自身の音に生まれ変わっているのです。実際に名器を演奏する人たちは、楽器の音に魅せられているのでしょうが、そこで終わってしまってはいい楽器で演奏したとしても、普通の音楽になってしまいます。それでは生きた音楽からは遠いいのです。
私事で恐縮なのですが、私の使っている楽器は1960年に作られたアルトライアーです。知り合いのライアー弾きたちがこのライアーを弾くといつも「こんなに鳴らない楽器なんですか」という感想を漏らします。私はこの楽器が鳴らないところが好きなので、お褒めの言葉をいただいたような気になっています。ところがおかしなことに初めてライアーを録音してリリースした時には「エコーが入っている音」と言われるほどよく響いていたのです。普通に言うと鳴らない楽器のはずなのに、録音で聴く音はそんなことを全く感じさせない、むしろエコーを入れて増幅しているとまで言われてしまうものだったのです。エコーを入れた音はボエけてしまうので、聴く人が聞けばその違いは一目瞭然だったので、その後はそういう人はいなくなりました。
音は一度死のプロセスを達と別の次元のものに変わるのだと思っています。よく鳴らない楽器だからこそ、かえって弾き方を工夫する必要が生まれたとも言えます。実はこのライアーは二代目なのです。最初の楽器も年代もので、同じくらい鳴りの悪い楽器でした。しかし弾き方で音は変わるもので、その鳴らない楽器で録音できたのは幸いでした。この楽器は事情で手放してしまってからは、弾き手が変わって音が変わってしまいました。その後鳴らない楽器をしばらく探して、運よく見つけました。知り合いにスポンサーになってもらえて、ゲットできた時の喜びは今でも忘れられません。実に鳴らない、しようもない楽器なのですが、私の弾き方によく馴染んでくれる楽器です。私にとっては正真正銘の名器です。
日本に滞在している間は、いろいろな楽器を好意で使わせていただくのですが、やはり最初は思い通りの音が出ないので、弾き込みます。しばらく弾いていると音が変わってきて私の弾き方に楽器の方で合わせてくれるようです。そしてよく鳴らないように弾くのですが、これがかえって聞き手の心に届くようなのです。貸していただく楽器の多くがよくなりすぎるので、それが大きな悩みです。
よくライアーをヒーリングの楽器というふうに紹介される方がいますが、私は、ヒーリングの本筋は楽器にあるのではないと考えています。どんな楽器でもそこから生まれる音がヒーリングの効果を持つかどうかなので、弾き手がヒーリングの世界を作り出せるかどうかだと思います。繰り返しますが「弘法筆を選ばず」です。医療でも最新の機械や特効薬を使えばヒーリングとみなされることがないようなものです。一人の医師が治せるかどうかなのと同じだと考えています。赤髭のような医者がたくさんの人を救ったりするような感じです。
手当てというのはなかなか意味深い言い方です。万国共通の言い方のようで、掌の中に何か力が宿っていると感じているのでしょう。音楽の演奏というのは想像以上に体全部を使っているものなのですが、究極的には手が最後の決め手になるのです。手のひらや、指先に心が宿るかどうかなのではないか、そう思います。一人の人間の心とか存在が指先にたどり着くまでに死のプロセスを通っているのかもしれません。