言葉は生き物、例えば禅の公案について

2025年10月15日

言葉は生き物だと思うのですが、どうしたわけか色々な人からどういうことかとよく聞かれます。意味以上にニュアンスが大切たということですと伝えています。

今年はドイツも猛暑でした。39度まで気温が上がる始末で、日陰に入ればなんとか凌げた昔の夏が恋しく思われるほどでした。

そんなある日、日本語を勉強しているという人と話をしていて、丁度日陰で話しているときでした。いい風が吹いてきたのです。その人が「涼しいですね」というのを聞いて、日本人ならそうは言わないのではと思って、その後色々と思い巡らしていました。その時は何も言わずに「そうですね」とだけ言って終わったのですが、なんとなく違和感があったのでした。。

後日、別の日本語ができる人と話をしていて、その時の状況を説明すると、「仲さんだったらなんと言ったのですか」と聞かれたので「いい風ですねと言ったと思います」と答えました。「涼しいですね」ではいけないのですかときかれ、それでもいいわけですが、なんとなく日本語ではない様な気がすると答えました。日本人は暑いとか涼しいとかいうのは、直接は言わないものだからです。私には「いい風ですね」の方がより日本的な言い回しに思えたのです。風が運んでくれた涼を讃える方が、自分が涼しいと感じていることを言葉にするよりも状況がイキイキとしてくる様に思うからです。

こういう言い回しはドイツ語にはほとんどなく、自分がどう思っているのか、どう感じているのかがまず第一ですから、そのことをはっきりいうのが、ドイツ語的と言えます。「いい風ですね」と言っても「そうですか」と相手にされなさそうです。風が吹いたので、本人が涼しいと感じたという流れです。

英語の「I love you」を「月が綺麗ですね」という風に夏目漱石が訳したということですが、それほど飛躍しなくでもいいとは思うのですが、「涼しい」というより「いい風ですね」と自然を讃える方が奥ゆかしさがあって、日本的風情が滲み出ています。そんなの遠回りと感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、この遠回りが奥深さ、面白さにつながるのだと思います。

禅問答に公案というものがあります。常識を超えて問答がされるのですが、このとんでもない問いと答えの中から悟りの道を見つけるという、禅ならではの格別の問答です。日本語というのはもともとこの公案の様なところがある様に感じています。例えば俳句の面白さは、説明上手というところにあるのではなく、全く方向を異にした様な発想を三つ並べて、一つの世界を浮き彫りにするというような妙技が、俳句の中では上等とされる様です。今や俳句は世界で愛され、数多く読まれていますが、他の言葉になると、俳句はもっぱら詩情の説明の術になってしまい、基本的には季語を使ったりしてはいるものの、川柳的な俳句が主流の様です。

ところが先日禅の考案についての講演会が行われたのです。それほどにドイツもなってきているのです。三十年前では考えられなかったことですから異変と言ってもいいくらいです。ドイツ語というのは、当時の常識からすると、論理的に整理することが至上命令でしたから、公案なんてナンセンスの塊で、即座にゴミ箱入りでした。ところが最近は知性だけではなく感性も、少しですが発言権を持ってきていて、矛盾したものなども受け入れる様になってきたのです。そこにこの間の考案をテーマにした講演会です。公案は矛盾の領域を遥かにこえ、ナンセンスなのですが、真面目で論理的なドイツの人がそこにも食いついてゆこうとしているのを感じるのです。ドイツも捨てたものではないと思ったりします。

意味から導き出せば 涼しいも、いい風も同じような結末になるのでしょうが、意味だけでない余韻の中で生き続けている様な取り止めのないニュアンスが日本の言葉にはあって、しかもそれがとても重要な要素であって、そこに至るにはただ言葉を勉強しただけではだめで、公案の様なナンセンスの中に真実を直感するようなものが身に付かないと、わからない事の様です。

ここで一つだけ付け加えないといけないと思うのは、シュールレアリズムというのがヨーロッパという土地に、二十世紀初頭にうまれ、それはヨーロッパの中で唯一ナンセンスにセンス(意味)を見出す努力をしていました。戦時中は軍部の猛反対にあって勢いを剥奪されてしまいましたが、私は個人的に精神衛生上とても大切なものと感じています。言葉でもナンセンスを見つけ出して、そこに新しいセンスを見出そうとしていて、そんな作品もいくつか生まれました。ミヒャエル・エンデさんの「鏡の中の鏡」はそんな作品だと思っています。現実世界から離れて考えるということについて言えば、西洋的公案なのかもしれません。

 

溢れている衣類、子どものもののフリーマーケットに思う

2025年10月1日

先日の日曜日に子どのもののためのフリーマーケットと銘打った催しがあり、行ってきました。私の娘が自分の子どもが着られなくなったものなどをまとめて展示して売るということでしたのでお付き合いでした。百店舗?ほどが所狭しと子どもの衣類、おもちゃ、靴、といったものを並べて売っていました。開催された場所がスポーツセンターで、そこの陸上競技のためのトラックの上で行われていたので、一周すると四百メートルあって、のんびりみて回って小一時間を過ごしたのですが、ほとんどの店舗がよく似たものを並べているのと、その膨大な量に色々と考えてしまいました。

どのくらい売れているのかというと、店によって違うのでしょうが、ほとんどが売れ残ったという事でした。ということは午後の四時に終了した時点で、あそこでみた子どもの洋服はまたみんなの家に帰ってゆくわけですから、家々に保管されている着られなくなった子どもの洋服は社会的な規模でいうと一体どうなるのだろうと、半ば絶望的な感覚に襲われてしまったのです。物質主義の時代の特徴とは、特に大量生産に入ってからは物が溢れているということの様です。溢れたものはどうなるのだろうかと考えてしまいます。もちろん捨てられるのです。今とは逆に精神主義の時代は時代できっと精神とかいうものが巷に溢れていたのかもしれないなどと気晴らしに考えていたら、少しは気が楽になりました。

街を歩くと、いろいろな店舗が並んでいて、どこの店を見ても物で溢れています。衣類だけでなく、生活に必要なものなのでしょうが、まさに洪水状態です。アクセサリーを売る店のまえを通った時に聞いた話なのですが、あそこで売られているもののほとんとがしばらくすると廃品扱いされるということで、愕然としてしまいました。物質主機の時代はものを作っていると同時にゴミも作っているのだということの様です。特に大量生産の時代になってこの傾向はますます大きくなっています。これも一つの環境破壊につながるものではないか、そんなことも考えてしまいました。

人件費の安いところで大量に作られ、それがドイツで安価な値段で売られるわけでつい買ってしまうのでしょう。かつての、日本でいう昭和の時代、それも最初の東京オリンピックが行われる前の、まだ経済成長が遅々としていた頃は、お母さんが子どもの着るものを自分て縫っていたものです。ゴムの入ったモンペのようなスボンを履いている同級生がいました。継ぎはぎのあるズボンなどは当たり前でした。お下がりという風習もあったようで、洋服ひとつが親戚の何人もの子どもに来てもらったわけです。産業が進み、生産力が向上すると、大量生産が登場しそれに巻き込まれてゆくわけで、そこまでくると産業とは、特に大量生産はもう立派な悪夢です。

今教育の場で物作りが見直されているとは聞きますが、この考えがどんどん広まって欲しいと願っています。ものを作る時代から買う時代になったわけですが、そこが諸悪の根源のような気がします。再びものを作る環境が生まれることを願うのです。ものを作る意味を考え直さなければならない時がきたのではないか、そんな気がしています。

 

音楽家が聞いているもの

2025年9月28日

数多くの作品を残している作曲家たちは普通の人が手紙を書くよりも速いスピードで曲想を音符に移し替えて行きます。その姿を思い浮かべると作曲のイメージが変わってしまいます。普通考えているものとは別の次元のことがそこで起っている様に思えて仕方がないのです。とは言っても基本的には私たちも手紙を書いている時にはイメージしたものを文字にしているわけですから、基本的にはよく似たことなのかもしれません。創造性というのはそういうものなのです。

彼らは心の中でずく楽譜が見えているわけではないのです。それを見てそれを写しているわけではないのです。イマジネーションだったりインスピレーションを得てそれを楽譜に置き換えているのです。ピアノに向かって鍵盤を叩いて作曲しているとします。偶然にいいメロでいーが生まれたというような感じて音楽ができたとしたら、そんなものはつまらない音楽です。楽器の力を借りたり、頭で捏ね回して作ったものなんか聞くに耐えないものですから、一度は我慢して聞けるかもしれませんが、二度目を聞こうという気にはならないしょう。もちろんその音楽は後世に残る様なものでないことは明らかです。

何年も何十年もあるいは何百年も聞かれ続けている音楽はそういう音楽とは違って輝いています。その輝きは偶然にできたというものではなく、特別なものが輝いているのです。普遍的とも言えるような力を感じたり、あるいは真実と言っていいほどの何かが貫いています。それは偶然できたようなものとは違い、イマジネーション、インスピレーションを通して天上から降ってきたものとしか言いようのない何かなのです。

この事実は音楽というジャンルに限ったことではなく、芸術と呼ばれるものに共通して貫いている力です。多くの人から支持されるものというのは、人為的なものではないものです。天上と言いましたが、人智を超えた力が働いているところからの贈りものです。霊的な直感力と言っていいのでしょうが、霊という抽象的な感じがするのでここでは、多くの人の願い、憧れといったものがそこに集まっているところと言ってみます。そこは霊的な力と人間味の混ざった温かい場所なのかもしれません。芸術が人の心を打つのは深いところを貫いているその暖かさかもしれません。単に奇を衒ったものではない、普遍的な力が人類の憧れなのかもしれないのです。

芸術と学問を比べても意味がありません。評価と期待の基準が異なるからです。どちらも真理を求めているので、真理という言葉にしてしまえば同じに聞こえますが、芸術的真理と学問的真理とは全く別のものです。芸術は個人的なイマジネーション、インスピレーションに負うものですが、学問は批判的な立証という手続きが不可欠なものです。

シュタイナーは教育を芸術だと考えていました。教育は教育学があってできるものではない言いたかったのかもしれません。教育のバックボーンとしては教育学があって教育を支えることは大切なことですが、教育の本質は教育学ではなく、教育の要は教師だと言いたかったのではないのでしょうか。なになに教育というもので教育を実践したら、先ほどの楽器を使って作曲したり、頭でこね回した音楽のようなもので、つまらないものに傾いてしまうと考えたのかもしれません。教師と子どもの間に教育学が入り込んだら、教師の子どもを見る目が曇ってしまいます。それはパターン化された教育に陥ってしまう第一歩です。それは生きた教育ではなく死んだ教育です。

独裁政治の支配した社会で芸術が政治思想の代弁者になったときのつまらなさを思い出してみてください。芸術的感動はそこにはなく、パターン化されたプロパガンダ的な表現は実に退屈なものです。思想とか主義というのは実はパターン化が根底にあって退屈なものなのです。人間の持つ可能性や未知数というのは思想や主義を超えた神秘的なものだからです。

今の時代は物事があまりに整理されすぎていて、多くのものが規格品に成り下がってしまい、なおかつ人間の精神性は窒息状態と言っていいと思います。人間が一人一人自分の内面に深く入り込まなければならない時代なのです。そして一方で外の世界に関心を持たなければならないのです。それが精神的な意味での呼吸です。自分の内なる世界と外の世界とが行き来することで精神が戻ってきます。一人一人が違った呼吸をしているところでは精神が生きています。