ユーモアを生きましょう

2025年7月30日

笑っている時が幸せです。ユーモアに包まれているからです。

ユーモアを持って生きたいと願っている人は多いと思いますが、いつも笑顔でいられたらいいのではないかとお勧めします。常に笑いを絶やさないでいられたらユーモアと一緒にいられます。

学問は大事なものですが、やりすぎると理屈っぽくなってしまいます。もちろんユーモアを学問してもユーモアは見つかりませんから、ひとまず学問を置いて心を開いて仲のいい友達と楽しい話をしながら笑ってみたらどうでしょうか。ユーモアの風がそっと頬を撫でてくれるかも知れません。ユーモアをまとっているというのは心強いものです。

知識でユーモアが何かを知っても意味がない訳で、生きたユーモアに近づきたいのなら笑顔の研究でもした方がいいのです。それよりもっといいのは笑顔で笑い続けることです。

私が生きているドイツという国のお国柄なのでしょうが、堅苦しいことが大好きな国ですから、私のようにいつも笑顔で笑ってばかりいると「あいつは頭がおかしいのではないか」と思われているのかも知れませんが、それでも笑顔で笑っていると幸せを感じます。何よりも安心して生きてゆけます。

ユーモアを生きるている人とユーモアを知らずに生きている人の間には決定的な違いが見られます。肌の艶の色でわかります。笑顔でいると血行が良くなりますから、お肌はツヤツヤです。高い化粧品を買っている女性には、笑顔がおすすめです。何よりも安上がりです。今風にいうとコスプレがいいです。この言葉知らなくて姪っ子に聞いたらコストパフォーマンスよと笑われてしまいました。外国の言葉を日本風に略した言葉は、外国人泣かせです。パソコンも長いこと分からなかったです。

笑えばいい、と言うと吉本のお笑い芸人のやっているようなことが思い出されるかもしれませんが、ユーモアのある笑いとお笑い芸人の笑いには大きな差があります。雲泥の差と言います。他人を貶したり貶めたりすることで笑いを取ろうとしたり、ブックユーモアのような皮肉った笑は、私が思っているユーモアとは故郷が違うようです。ユーモアの笑いの中は愛情があります。人を敬う気持で溢れていますから気品のある笑いと言えるものです。この気品は人格を高めてくれますが、ユーモアを持って生きているということは本当にいいことだらけです。しかもユーモアから余裕も生まれますから、ますますお得な買い物をしたようなものです。

ユーモアを持っている人に感じる余裕というのは、他人を敬える姿勢から生まれるものだと知っておくと、ユーモアの方から歩み寄ってきます。そうなると心がゆったりしてきて、他人に向かって笑顔が絶えなくなります。苦虫を噛み潰したような暗い表情の人にユーモアは寄り添ってこようとはしないでしょうし、たとえ来たとしても当の本人が踏み潰してしまうでしょう。そういう人のそばに居るだけで生きる力が吸い取られてゆくようです。

現代はどうもユーモアが欠乏している時代のようです。どこに行ってしまったのでしょうか。文化全体がユーモア欠乏症に罹っているので、世の中には自然な笑いが少なくなり、笑いはお笑い芸人のような特殊な、不自然な、人によって作られた人工的なものになってしまいました。ユーモアには早くまた帰ってきてほしいものです。

現代は笑うことがセラピーに数えられている時代です。しかし本来笑いというのは日常生活の中にこそなければならないものだと思うのですが、日常生活が疲れ切ってしまって壊れる寸前の状況の中にあるので、ユーモアがいられる場所がなくなってしまったのかもしれません。しかも人々は孤立してしまって、心を開いて笑って話ができる友達もいなくなってしまったようです。隣の人と話すことすらなく、信じられなくなった時代はお財布の中身だけが頼りになる時代なのかも知れません。

 

 

詩の言葉と散文

2025年7月29日

日本の言葉は韻文が根幹にあるようです。それはひいては思考にまで影響していて、詩的思考に傾いているように感じます。

日本では、新聞などで素人の人が詠んだ俳句や和歌が選者によってスラバレ掲載されています。ドイツではそのようなことは全くと言っていいくらい見られないことです。日本ではまだ俳句や和歌の文化が生き続けているのですが、ドイツなどでは詩的表現は一般文化の中から消えてしまったかのようです。なんでも直接的にいうことがいいことで、歪曲されたような、悪くいうともったいつけたような回りくどい言い回しは好まれません。詩的表現はほとんど見られなくなっていて、言葉といえば全て直接意味がわかる散文のことになってしまいます。

散文はものを直接的に説明するのに便利な言葉です。しかも現代人が言葉に期待しているのがそのような歯に衣着せないような直接的説明ですから、散文はそのためにうってつけということになり、詩の言葉は忘れ去られることになってしまったということです。詩の言葉は散文と違って、読み手の感性に働きかけようとします。散文が知性に訴えかけようとするのに対して、詩は幅広く感じる心を相手に期待しています。含みのある理解だとも言えます。

詩の言葉は知的正確さではなく、感性の繊細さ、豊かさ、多様性と言ったところから生み出されます。表現したいものをどのような道筋で運んで行こうとしているのか、そのために研ぎ澄まされた感性、感覚、感情が言葉を探しているので全く別の言語感覚がそこにはあります。

知性は物事を一般化、平均化してしまいます。知性が中心になると意味ばかりが強調され、個性は重要なものではなくなってしまいます。幅の狭い理解とも言えます。個性は個人個人によって違うものですし、違うことを「良し」とするものですから、平均化よりも違いを謳歌します。

私たちが感情と呼んでいるものは、知性の合理性とは違って幅があり曖昧なものとして理解されていますが、一人ひとり違う存在なのだということを認めることができれば、そこにある幅は楽しいものなのです。ただ現代は幅の狭い理解を求める知的社会ですから、感情的に起因する主観的な個性のあり方が許せないのかも知れません。

そうした心の状態が如実に見てとれるのが、詩的言葉が失われてしまったところです。詩的言語の退行現象です。詩的に表現するなんて、曖昧な上に意味がないことと言われてしまうのです。

感情的というのは主観的で、知的な客観性からすると幼稚なもののように見られがちですが、それは違うと思います。合理的なものが主流の現代だからそう見えるだけで、主観的、感情的なものが持つ幅はもっと評価されていいものだと言いたいのです。

知性というのは前提があるところで有効ですが揮発性があって、前提が崩れてしまうと意外とあっさりと消えてなくなってしまうものでもあります。主観的、感情的なものはそう簡単には消えてなくならない根っこを持ったものなのです。

 

過ぎたるは及ばざるが如し

2025年7月25日

今の時代の特徴を一言で言えば、過剰生産の他には思いつきません。むやにものを作ればいずれはこうなると経済学者たちは予想できなかったのでしょうか。経済学という学問がその程度のものならば経済学という名を返上すべきだと思います。思いつきで語ってはいけないこともあのです。

ものを作り過ぎるというのは人類史の中でもつい最近のことのようです。具体的にいつどこで始まったのかと考えると、当然のごとくに産業革命が思い当たります。それまでは手作りだったものを機械で生産するのです。初めは多くの人に物が行き渡るのを幸せにみていたのでしょうが、状況はいつの間にか逆転して、今では色々なものが溢れんばかりになってしまいました。ものを機械で生産し続ければいずれは過剰生産の時代が来ることは普通の常識でわかるものです。機会をコントロールできなくなってしまった人類には悲しい末路が待っているのでしょう。

合理的にということを考える知能明晰な人たちがこんなミスを犯すなんて信じ難いことです。でも実際に起きてしまいました。知能明晰はあまり役に立たないもののようです。もっと前に誰も止めることができなかったのが何よりも不思議です。まるでグリム童話の中の「甘いお粥」の話そのものというところも滑稽極まりないところです。

車のエンジンを自力で作れない国が、プラモデルのような電気自動車ならできると、むきになって作ってみて面白いように売れたのでさらに拍車がかかった挙句、今では作りすぎという悲劇の渦中にいます。火を見るより明らかだったのではないかと想像するのですが、そこで歯止めが効かないのが現代の利益が優先する物欲に振り回された社会の悲劇のようです。武器を余るほど作って仕舞えば、それを消費するために戦争が必要になるわけです。この先もこの利益をもたらす過剰生産は続くのでしようか。先日洞窟探検家の人が「水さえ飲んでいれば十日くらい食べなくても生きてゆけますよ」と、洞窟の中での実際の体験を語っているのを聞くのは衝撃的でした。遭難した人が板チョコで数日生きていられたので救われたという話も思い出しました。

武器が際限なく作られ世界中に溢れれば戦争が必要になってきます。至る所で戦争が準備されるのです。そうすると人類はどんどん貧しくなってゆきます。足を知るというのは人類がみんな難民になってしまわないとわからないことなのでしょうか。それではあまりに愚かとしかいえないような気がします。