言葉と言霊あるいは知性と感情

2026年3月24日

日本人には馴染みのある言霊という考え方を延長させたら、音霊(おとだま)というのもあって然るべきということになるのではないのでしょうか。言葉の奥に言霊があるように、音の奥には音霊があるというのは正当性がある様に思います。音霊についてき後日に回してまず言霊です。
わかっているようて正直わからないというのが本音ではないかと思います。そもそも何のことを言っているのでしようか。言葉は言の葉です。現象世界の意味を担っているとすれば、言霊は幹とか根といつてもいい様な気がします。根源的な、あるいは魔術的な力を秘めているに違いありません。思っていることを言葉にすれば叶うという時、それは言葉の奥に言霊が働いているからだというわけです。言霊には超能力的な力があると考えられている様なののです。正に魔術的です。
旧約聖書の冒頭部分を思い出してください、天地創造の場面では神様が言葉を発するとそこから色々なものが現実の物となって生まれてきました。光あれと言うと光が生まれたのです。これこそまさに言霊の力と言えますから、言霊は日本だけのものではない様です。大袈裟かも知れませんが宇宙の根源の力とも言えそうです。
日常で普通に使っている「言葉」と神秘的な「言霊」の関係を見ていると、言葉にすることで初めて言霊が力を発揮するというふうに理解できます。ということは言霊は言葉と分かちがたくあるものと言っていいようです。言葉無くして言霊なしということなのでしょうか。ある方が言葉を「光と波(ことは)」と書いていたことを思い出します。「と」も漢字だったのですが忘れてしまいました。言霊というのが実は普段の言葉の中にすでに宿っていると考えると、言葉というのは光の波というふうに理解するのは当然の様な気がします。
ただ現代は、言葉がもっぱら意味を説明するための道具になりさがってしまいました。言葉の持つ意味を求めたのは知性の仕事でした。人間が知的になるに従い、言葉から言霊が薄れていってしまったのではないのでしょうか。ということは言葉から意味伝達専用機という役割を解放してあげれば、言霊がふたたび言葉に返ってくるということなのかも知れません。そのためには知性オンリーの生活から脱却しなければならないのです。
知性の副産物に散文があります。古い時代は韻文が生活の中にもふんだんにあったのですが、言葉が知性の道具になったため散文が言語手段の主流になってしまったのです。意味を正確に伝えるという要求に従ったのです。私たちの中心にある散文がどういうものかを極端に描写すると、無味乾燥な言葉ということになります。あるいは箇条書きに要件を表している様なものです。六法全書に使われるような言葉も典型的な散文です。こんな言葉ばかり使っていたら人間生活は乾涸びてしまいます。現代というのは言語的にのみならず、生きてゆく環境そのものが殺風景で味気ないものになってしまった様です。知性に頼りすぎるというのは人間生活をこんなに殺伐としたものにしてしまったのです。
知性を克服するにはどうしたらいいのかということになります。最後に私の考えるところを述べてみたいと思います。
知性を放棄するということとは違います。知性は大事なものですから持ったままでいなければなりません。私たちの意識のレベルアップが必要なのです。そこに私は感情というものを持ってきたいと思います。感情というと知性より低いものの様に感じる方もいるかと思います。感情的にならずにもっと理性的にならなければなんて言います。感情というのは動物的なものの様に聞こえますが、そこで言われているのは感情ではなく衝動ということです。あるいは条件反射的ということです。外からの刺激に対して間髪を入れずに反応することです。ロシアの生物学者のパブロフが犬で実験したことです。餌を与える時に鐘を鳴らすと、鐘を鳴らしだだけで犬は涎を垂らす様になるのです。感情というのはその衝動的なものが理性を通してグレードアップしたものと言っていいのかも知れません。感情というのは心の中の漣(さざなみ)の様なものです。心の中に生まれる襞(ひだ)です。知性は固まる傾向にあるのですが、感情はいつも波の様に動いています。その動きはリズムを産みます。そこから韻文、リズムのある言葉が生まれたのです。つまり知性の克服には心の動きリズムを感じ取りそこに言葉を乗せてみるのです。言葉で詩を作ることです。あるいは詩をたくさん読むことです。散文に慣らされてしまった知的な現代人は、リズムのある詩を読んでもチンプンカンプンかも知れませんが、習うより慣れ路です。繰り返す中でだんだん何かを感じられる様になるものです。

宗教が争う?

2026年3月23日

ドイツ人の間では日本の人と宗教について話すのはタブーとされています。神道と仏教とを合わせて180パーセントにもなってしまうと言われるこの国には、一神教の人と同じ土俵で話せる宗教観がないからです。日本にもキリスト教の信者さんはいますが全国民の0.7パーセントほどと言われています。日本人にとっては、神道の国か仏教の国かではなく、和を以て尊しとなすということから神仏混合となり、二つの宗教を対立させるというふうにはならないのです。
そもそも二つのものがあるときに人間が取り態度には三つあります。「どちらか」、「どちらも」、そして「どちらでも無い」の三つです。西洋は「どちらか」が主流です。そのことから二つの宗教が存在するところではどちらかが正しいということになり、そこから正義を賭した争いが生まれます。ところが日本は「どちらも」の国ですから、神道も仏教も共存できると言うことになります。西洋の歴史をみると宗教戦争が繰り返されています。宗教上の教義の違いということなのでしょうが、その奥にあるのが、どちらかが正しいという基本です。自分が正統だという主張です。どちらも正しいと認められれば戦争にはならないで共存できるのですが、「どちらか」ではそうはいきません。決着をつけなければ治らないのです。不思議なのはそれが宗教という名の下で公然と行われることです。どの宗教も言うところの寛容とか許しはどこに行ってしまったのでしょう。

昔神主の養成をおこなっている國學院大学の理事長が世界宗教者会議から帰ってきて、「神道は世界から宗教とは認められていないようだ」と言っていたのを聞いたことがあります。理由は教義のない宗教など考えられないと言うことだそうです。教義が無いところに信仰は生まれないというのが宗教的な考えなのだそうです。神道の根本は「こと挙げせず」ですから、逆に教義など作ったら神道ではなくなってしまいます。ここは論議しても堂々巡りになってしまうので深入りせずにおきますが、教義を持った宗教が長く続いたことがないので、長い目で見ると、教義を持たない神道の方が長く続いていて、しかもこれからも長く残るのではないかと思ってしまいます。

八百万の神というのは人間を取り囲む全てに神様を感じることと理解しています。信じるか信じないかと言う、形を強要されるものではなく、感じ、共にあることに感謝すると言うことではないかと思っています。一神教の世界でも、神が全てをお創りになったというのであれば、全てのものの中に神様の命が吹き込まれて生きているということになるのではないのでしょうか。そこに神様がいると感じてもおかしくはないのに、神様がお作りになった物に命を感じないということであれば、物は単なる物質でしか無くなってしまいます。物には命が宿っていないのです。ただ単に物にすぎないということなのでしょうか。私たちの周りにはそのような物が取り囲んでいるということなのでしょうか。その物を自分の都合で使い果たし、破壊して、その後で補修する。自然とは単なる物の集まりということになるのでしょうか。そして自然保護とはそういう物である自然を整備することになるのでしょうか。人間の能力で物である自然を護るというのはどの様なことなのでしょうか。
とです。
物の中に命を見ないこと、これは相当罪の大きな罪です。物とは単なる物ではなく命を宿しているという八百万の考え方が、世界に広がることはこれからの世界にとって何かしらの変化をもたらす力になるのではないか、そんな気がしてならないのです。

東洋の音楽の未来

2026年3月20日

西洋と東洋という分け方が正しいのかは別として、西洋思想と東洋思想とを比べてみると、どちらにも優れた特性があり両方を知ることで人生観が、更には宇宙観が深まります。特に近年に至って西洋からの積極的な東洋へのアプローチを通して東洋思想の奥深さ、特に歴史的に見て多くのことが西洋で語られる以前に理解されていたことがわかってきたという実例もあります。老荘思想、仏教哲学などです。
思想の世界から音楽の世界に矛先を向けてみると様相は少し変わります。西洋音楽の独壇場という印象が強いです。西洋音楽というのであれば東洋音楽と言ってもいいわけですが、東洋音楽と聞いてもピンとこない方が多いのではないかと思います。私も東洋音楽については本をいくつか読んだ程度で多くを語れません。西洋音楽は世界的に認識されたいわばブランド品と言ってもいいもので、世界中の人の心の中にしっかりと居場所を獲得しています。音楽といえば、特にクラシック音楽といえば西洋音楽のことに決まっているのです。西洋音楽は精神性を伴ったものとして、そこから生きる糧をもらっている人がた沢山います。しかし東洋で生まれた音楽は未だ世界的に知られているとは言い難く、西洋音楽とは比べようのない蒸気ようにあるのです。
東洋で生まれた音楽は今までは民族的な音楽として語られてきました。西洋音楽と比べ世界性、精神性と比較すると、ある民族に特有の音楽としての関心が主だったもので民族音楽としての関心を超えることはほとんどなくローカル色の強いものでした。
パリでの世界見本市でインドネシアのガメラン音楽がドビッシーの耳に止まり、それ以来東洋音楽が世界の場で語られる様になったものの、東洋の音楽が西洋音楽に切り込んだことはほとんどなかったのです。武満徹の尺八と琵琶の協奏曲と言ってもいい作品「ヴェンバーステップス」がニューヨークで初演された時、指揮をした小澤征爾はニューヨークフィルハーモニーの楽団員がこの音楽を真面目に演奏しないのに困り果て、小沢の師匠でもありニューヨークフィルの音楽監督だったレナード・バーンスタインに苦言を呈し、楽団員に真面目に演奏するように言ってもらったというエピソードがあります。東洋の音楽は音楽に通じた専門家の間ですら馴染みのないものでどのように演奏していいのかが分からなかったのです。今はずいぶん東洋音楽が置かれている環境が変わってきています。積極的にヨーロッパではコンサートのプログラムに取り上げられる様になっています。特に現代音楽という枠組みの中で注目を集めています。現代音楽の特徴は初演という初舞台は経験するものの、その後が続かないことがほとんどです。珍しい、奇抜なという点が前面に出ているもので、いつまでも、何度も繰り返して聴きたいという西洋のクラシック音楽の領域には至っていないのです。東洋音楽は西洋的な立場からすると現代音楽のように扱われてしまうのですが、そもそもは長い歴史の中を生き抜いてきたものです。民族の中にはしっかりと根付いているものなのです。しかし民族というハードルは高く、それを乗り越えて世界の音楽になることは今までなかったのです。
西洋音楽は西洋思想に裏打ちされて栄えたといえます。西洋思想が音になったと言ってもいいところがあります。同様に東洋音楽も東洋思想が背景にあると考えてみたいてのです。ということは東洋思想が西洋史その中で発見され評価されたように、東洋音楽もこれからの音楽の発展の中で発見され評価されることは期待できると思うのです。東洋的性格からして自分を売り出すことがないので、評価という行為は西洋が得意ですから、近い将来東洋の音楽を評価するきっかけが用意されているのかも知れません。
習うより慣れろという言い方に従えば、西洋音楽には耳が十分慣れたと言えます。しかし東洋音楽はまだ知識として知っているという程度で、慣れるほど聞くチャンスもないわけですから、習うところで止まっている様です。もっと頻繁に演奏される機会が増え、聴衆の耳が慣れるほどになると状況が変わるかも知れません。そんな日が早くきて欲しいものです。