感覚のこと その一

2025年3月21日

感覚というのは限りなく広く深い世界でいい尽くすことはないと思います。感覚というのは意識することが出来ず、ほとんどが無意識裡のことですから整理しようにも手が出ないというところがあるのです。

感覚のことで興味深いのは、ある感覚能力が欠けている人を見ることで浮き彫りにされることがあります。たとえば視力のない人は、その分他の感覚能力が研ぎ澄まされるということです。目が見えないことで、目が見える人以上に音に敏感になります。敏感と言っても漠然としているので具体的なことを言うと、人の足音に対して敏感になります。足音で誰かがわかるのです。同じ人の足音でもその日の健康状態、心理状態なども感じ取れるのです。声にも敏感になります。ある人の声を聞くだけで今日のその人の健康状態、心理状態が見抜かれてしまうのです。フランスで戦時中にスパイを見抜くために盲目の人が会議場の入り口で参加者一人一人に挨拶をして、実際にスパイを暴き出したことは有名です。目が見えないということで日常生活に不便を感じることはあるのでしょうが、だからと言ってそれが人間として不自由なのだという結論にはならないのです。むしろ自由の可能性を拡大しているとも言えるので、普通に備わっている感覚からマイナスされているのではなく、このマイナスに見えるところは感覚そのものの可能性を広げていることでもあるのです。

痛覚がない人は少し特殊かもしれません。痛みを感じないわけですから、痛みという感覚体験に強烈な憧れがあって、一回でもいいから痛みを味わってみたいと、高いビルから飛び降り自殺をしたりすることが報告されています。熱を感じない人は火が熱いことを知りませんから、火に直接手が触れても、熱さを感じないのですが、熱は皮膚を侵しますから、大火傷をしてしまうのです。火傷には痛みが伴いますから、大火傷をして初めて火傷をしたことに気づくのです。しかし熱いと言う体験はともなっていなのです。

感覚は周囲からの刺激に対して反応し、そういうものがあるのだと知らしめてくれるので、私たちの体験を豊かにしてくれるものですが、一方で感覚は私たちを守っていてくれるものだということが先ほどの例で分かります。感覚は私たちにとって外界に向けての防波堤でもあるのです。

もし人間が感覚能力を全然持っていなかったらと想像してみてください。人間は自らの存在に気づくことはないのです。今私は生きているということを無意識に教えてくれているのが感覚だからです。感覚とは情操や感性を磨いてくれるというよりも、まずは存在していることを教えてくれているのです。

ある感覚のために開発された器具を使って訓練しても感覚の発達には大して役立たないと思います。むしろ逆効果であることが多いように感じています。それは感覚というものの内容を一面的に理解しているからです。平衡感覚を育てるための訓練器具がありますが、それを使うよりも石ころや根っこで歩きづらくなっている山道を歩いているときの方が、体のバランスを取ろうとして平衡感覚が起動し始め、それによって平衡感覚が鍛えられるのです。器具を使ったなりの効果はあるのでしょうが、局部的訓練のような気がします。やはり大自然の中で研ぎ澄まされてゆく方が、体全体に感覚能力が広がるのだと考えます。

 

単純な日常生活からの逃避

2025年3月20日

日常生活については今までも何度か述べています。ですから重複するものがあることは承知して読んでください。

日常生活というのは見方によれば変わり映えのない退屈なものです。これが一番一般的な見方です。そして一番危険なところは、マンネリ化です。同じことの繰り返しに思えてしまうのです。退屈で腐ってしまいそうです。

ところが私たちはこの日常生活と真剣に向き合ったことってあるのでしょうか。私はないと想像します。ですから時々は気分転換に何か特別なことをしないと体がもたないと考えたりするのです。そのために色々なイヴェントに出かけたりして外から刺激をもらおうとするのです。旅行するのもマンネリ化予防なのかもしれません。旅行人口は二億人を超えているといいます。現代は旅行の時代です。知らない土地に行って、非日常的な空間の中に身を置くことで、また日常に帰って行けるのです。

退屈なんて何の価値もないものだと、とてもネガティブなものと考えられていると思います。退屈している時、ぼんやりしてやることがない時というのはボートしているので確かに何もしていないわけですが、最近の脳の研究によるとその時一番脳は働いているというのです。却って何か意味のあることを、たとえば社会的に、人類的に、環境のために、人種差別反対と頑張っている時、脳みそは働いていないのです。

確かに人のために役立つことをしているのですが、それというのは社会的によく見られたいというのがあっての行為なのではないかと思うのです。しかしそれこそが却ってマンネリ化してしまった社会のための慈善行為なのではないかと思うのです。

もっと意味のないことをしないと脳は働きません。毎日の生活の合間にボーッとしている時間を作らないと、頭はどんどんバカになってしまいます。何もしていないような時間、頭の中をいくつも思いが去来します。特に力を抜いてしっかりボーッとしている時。何にもやることが見つからないでいる時です。何かをしなくちゃという気持ちを払拭しないとこの境地には入れないのです。

そんな時枠を外した生の自分を感じることがあります。貴重な体験です。ですから私は貴重な時間だと思っています。ただこれが自分だとか、自分にこうなってほしいなんて力の入った思いを混ぜてしまっては台無しです。

さて日常生活ですが、何にもないようなのですが、ただ日常生活をしている間でも本当にたくさんのやることがあるのです。しかも日常生活は評価というものから外されています。それも子どもを産んで産休が終わるか終わらないかで社会復帰を考えるお母さんが最近は増えています。ただ毎日生活に追われているだけでは、誰も評価してくれないので、会社に行って人と交わって忙しくしている時の方が気がまぐれていいという人が増えています。日常生活の大変さを逃れた方が楽であり評価があるのです。

日常生活というのは不思議なほど地に足のついたものです。最近はネットの普及によって、情報な広がり情報の海の中を泳いでいるのです。情報は知識としてみればたくさん持っているに越したことがないのですが、情報というのは人の考えで、地に足のついていない、バーチャルな世界ですから。地に足のついていない、お化けのような中を彷徨っているのです。

リズムの復活

2025年3月16日

音楽の基本はメロディーとリズムです。

今日の音楽を見渡すと、主流はメロディーの方で、リズムは目立たない存在になっています。ビートという形として残ってはいますが、リズムを感じ享受する感性は退化していると思います。

音楽はもともとは言葉から発生したものだと色々な研究が報告しています。その言葉ですが、もともとはメロディーとリズムが備わっていたものだったのです。

ヘブライ語は3000年くらい前の言葉ですが言葉そのものがすでにメロディーとして歌われたと言われています。ヘブライ文字は今日の楽譜でもあったのです。ほぼ同じ頃のギリシャ語ではリズムによって詩が作られていました。多種多様なリズムの形は今日では想像できないほどのヴァリエーションを持っていて、それぞれのリズムは詩の内容にふさわしいものが使われていました。それらは歌われ、そしてそのリズムで輪になって踊っていたのです。今で言う輪舞です。それをコロスといったのです。コロスはその後色々に変遷して、ギリシャ劇の中で劇の筋書きを歌で説明するものとして活躍しました。日本の能楽の謡と同じです。

キリスト教の教会の建築様式にもコロスの名前は残っているほどです。教会建築は二つの部分が組み合わさっているもので、祭壇のある丸天井のあるところをコア、コロスといい、長く伸びたところは船と呼ばれています。ちなみに船とはノアの方舟の船底のことを意味しています。丸天井を見上げるとそこには楽器を持った天使達が輪踊りをしていますが、それはギリシャ時代のコロスの名残です。

詩というのはリズムに合わせて踊ったものなのです。リズムには体を動きに導く力があって、詩を歌いながら踊ることができたのです。ヨーロッパで生まれたバラードというのももともとはコロスと同じで詩を読みながら輪になって踊ったものでした。今日ではショパンのピアノ曲に名を残しているにすきないようです。メロディーにはリズムのような体を動かす力はなく、頭脳的、知的な方面に刺激を与えるもので、思いや心を整理するためのものと言えそうです。

日本に限らず昔は職人さんたちの世界では共同作業をする時には歌ったもので、杜氏たちが仕込みをする時に歌う歌があったり、棟上げの時に歌う歌があったりしました。漁師が網を引き上げる時にも歌があってみんなで力を合わせる時にはリズムがまとめたのです。

現代にリズムが衰退したのは、仕事の仕方が変わってしまったことも大きな要因です。物作りは工場での大量生産に変わり、多くの人がコンピューターの前に座っているのが現状です。

 

リズム体験というのは、メロディー体験とは違うものです。メロディー体験は知的なものですが、リズムはどちらかというと体感的で無意識に感じているところがあります。西洋音楽になれた耳にはまずメロディーが入ってくるのではないのでしょうか。そのメロディーを支えているリズムの方に最初に耳を傾けるということは、今日では稀だと思います。メロディーを生かすためのリズムという位置づけかもしれません。

リズムがどのようにして生まれたのかというと、生命を支えている呼吸と心拍からです。呼吸は一分間に十八回、心拍は七十二回で、二つの関係は一対四となります。こうしたリズムの中で生命活動が行われているのですがこれらは無意識の中で営まれいるもので、私たちが意図的に働きかけることなく死ぬまで動き続けています。

 

バッハの器楽音楽の特徴はリズムの変化を避けているように感じています。その代わりにメロディーを強調しているとも言えそうです。メロディーを浮き彫りにする現代の音楽志向、音楽傾向がバッハに特別大きな関心を持つのはそのためかもしれません。リズムをひかえるとメロディーがはっきりと浮き彫りになります。リズム持った音楽は体の動きを誘発しますから、知的には集中力が拡散してしまいます。そうなると知的なものではなくなってしまいます。古い音楽の名残と言われるのもそのためのようです。スペインのチェロ奏者カザルスがバッハの無伴奏チェロ組曲を初演した際には、どろっ臭いと酷評した批評家がずいぶんいたということです。彼の抑揚のある演奏は好まれず淡々と抑揚なく弾く方が垢抜けしたバッハということだったのかもしれません。

特に機械社会の中ではリズムを持った動きは機械から嫌われるものです。機械は複雑なリズムが苦手です。単調な流れでないと機械の故障の原因になってしまいます。リズムを育てる社会的環境はますます貧困化しているのです。

リズムはこれからもメロディーの影に隠れたままでいるのでしょうか。それともまたいつの日かリズムへの憧れが人間の中に目覚め、人の輪を作る躍動感のある生き生きとしたリズムが蘇ることがあるのでしょうか。