抽象化されたものと医療の未来

2024年4月17日

抽象的ということを言い出したら現代人の生活は抽象化されたものに取り囲まれています。抽象化というのは仮想現実と言われるコンピューターによるバーチャルな世界に通じるものだとも言えそうです。コンピューターの出現はそうしたものを加速化させ増幅しただけで、抽象化というもの、仮想現実というものはコンピューター以前からあったものなのです。

音を見てみましょう。音はどんどん抽象化されたと言えます。そして音楽という独自の世界を作り出しました。現代人はそうした抽象化されたものが当たり前になってしまいましたから、改めて言われないとそのことに気づかなくなっています。丸太を叩いてリズムを刻んでいた遠いい昔から比べると今は極度に抽象化した音を使って、音楽というこれまた抽象的な世界を楽しんでいます。

言葉というのは実は抽象化された最たるもので、特に小説などは時には非現実的な言葉を用いて読者に臨場感をもたらしながら現実に似た世界を描くのですから、相当高級な芸術的技量です。嘘と真実の間を行き来している魔術師です。

同じ言葉でも使用説明書のようなものは現実にぴったり寄り沿って言葉が使われているので、わかりやすですが、文学と言われる世界に入ると、使われている言葉は抽象的ですから、読者によっ感じ方が違ったりして、理解が難しくなります。ますます現実離れしてきます。

芸術はこのように全て抽象化するプロセスを通っていますから現実だけを見て事足りている人たちからは距離ができてしまい、悪く言えば現実離れした遊びと言われてしまうのです。昨今は芸術などという言い方よりアートという言い方が好まれますが、基本的には抽象的な遊びには変わりないのです。

 

芸術を治療的に使おうとしている動きがあります。芸術治療という世界ですが、音を使ったり、色を使ったりして、患者さんに働きかけようとしています。医療としてはいまだに正規の治療法として十分認知されていないですが(日本は特に)、外科の手術とは違い、回復がはっきり証明できるものではないので、曖昧さはこれからも払拭できないと思いますが、例えば音楽に感動したり、絵画に接し深く感銘したりすることは否定できない事実で、音とか色、音楽や絵画が私たちに何らかの働きかけをしていることは確固たるもので、しかも何千年もの間人類は紛れもなく音楽や絵画を必要としていたのです。それは私たちの内的栄養だったからだと言っていいはずです。これだけでも芸術治療は有効な手段だと言えるのではないかと思います。

人間は抽象化されたものから現実に栄養となるものを摂取することができる不思議な生き物なのです。この点からも医療が見直されていってほしいものです。

生きた音と死んだ音

2024年4月17日

私たちは一日中音を聴いています。わたしたちを取り囲んでいる音が耳から入ってきているのです。目は閉じれば見えなくなりますが、音は耳栓をしても入ってきます。よほど精巧にできたヘッドホーンのようなものに頼るしかないのです。

私たちはその音を雑音と呼んでいるのです。

雑音というとガサツでうるさい音というイメージがあります。確かに洗練された音楽的な音と比べると粗末な貧弱な音と言っていいと思います。

しかし雑音が実は「生の音」なのです。では音楽的な洗練された繊細な音は何と呼んだら良いのでしょうか。もちろん「死んだ音」です。

この分け方は多くの人にとってショックなのではないかと想像します。

 

日本は島国です。四方が海に囲まれているので、私たちはさまざまな魚を取り、それを食しています。それらを生で食べると聞くと、外国の人は呆れてしまい、野蛮人扱いします。しかし取ってきた状態のまま頬張るわけではなく、刺身の場合でも包丁でさばいて食べやすい状態にまでして初めて口にします。さらものによっては火で炙ったり、煮たりと調理して食べます。刺身にしろ調理された魚にしろ、食べられる状態にされたところで「死んだ魚」なのです。取り立ての生きのいい魚にしても、「死んだ魚」なのです。

海や川で取れたままの生の状態の魚と私たちの周囲にある雑音はよく似ています。私たちは雑音からなる音の集団をそのまま音楽とは理解していません。音楽というのは楽器で演奏された音が必要です。舞台の上で大きなハンマーでグランドピアノを叩き壊すのが現代音楽と呼ばれるジャンルでは行われていますが、それは雑音を舞台に載せただけで、音楽作品とは言えないのです。それは雑音は音楽ではないからです。

魚を捌くと魚は死にます。私たちは生きのいい刺身を食べたとしてもそれは「死んだ魚」です。音も雑音から気持ちよく聞ける音にしなければなりません。そのために楽器というものが作られました。楽器を通して音は死ぬのです。私たちは音楽的な音を聴いて音楽を感じ感動するのですが、「死んだ音」を聴いているには変わりないのです。

音楽的な音を死んだ音とするのは多くの反対が押し寄せてきそうな気がします。楽器が奏でる音こそが生きた音で、道路で工事現場で聞けるのは雑音で死んだ音だと言いたいのだと思います。気持ちとしてはわかるのですが、音は楽器を通して一度死ぬから私たちの中で蘇ることができるのだという考え方はどうでしよう。

魚が一度死んで料理されて初めて美味しいものになるように、音も生きた雑音から一度死ぬことが定められているのです。楽器を通して演奏されることで音は死んだのです。死んだ音になったからそれを人が聴いて音楽体験とすることができるのです。音楽は死から蘇った音で作られているのです。私たちはその死んだ音を蘇らせる能力を持っているのです。抽象化という能力です。それがあるから美しいのです。しかしそれは人工的な美しさです。生のままの音が私たちの中に入ってきてもうるさいだけなのです。生の音、つまり雑音からは音楽ができないのです。抽象化がなされていないからです。生魚をそのまま鍋に入れただけでは食べられないようなものなのです。

ある人がお伊勢参りをしたします。そこでいろいろな旅行体験があって楽しくお参りができて無事に家に帰ってきて、お参りに行かなかった人たちに話をしようとして、いろいろに盛りだくさんに体験したことを事細かに話しても、一緒に行っていない人には何のことだかよくわからないはずです。行ってない人がわかるようにするにはどうしたらいいのでしょうか。つまり一度自分で消化する必要があるのです。つまり食えるような話にするにはどうしたらいいのかということです。ただただ事細かに話しても話は食えない話のままなのです。それを食える話にするためには抽象化という工夫が必要なのです。それは消化というもので体験を粉々噛み砕くのです。話をする人が一度自分の中で粉々に消化しないと他人に話しても食える話にはならないということなのです。

 

未完成交響曲を聴く

2024年4月15日

こんな音楽は世界に一つしかない、私はこう断言します。

こんなというのは奇妙なというのか比較しようがないというほどの意味です。実はもっと深い意味をお伝えしたいのですが、そこに触れると今はかえってこんがらがってくるので、ここまでにしておきます。

交響曲の形式から見るとこの作品は未完成のまま残されています。だから未完成というニックネームが冠されているのですが、音楽としてみればこれほど完成度の高い交響曲はないと思っています。

またこの曲は紫金石のようなところがあって、聞いていると、指揮者とオーケストラの力量、それに両者の息がどれほどあっているのかがよくわかるのです。そうかというと、アマチュアの、しかも青少年のオーケストラのような初心者が演奏しても、なんとなくまとまって作品らしく聞こえるのです。こんな交響曲は他にありません。なんとも不思議です。専門的にいうと、こんなに複雑に、目まぐるしく転調している音楽は珍しく、そこを理解して演奏している演奏を探すとなるとわずかしかないかもしれません。

 

音楽にそんなに通じていない人は、なぜ一つの交響曲にこんなにこだわるのかと不思議に思われるかもしれませんが、音楽というのはそこに作曲した人の人生が凝縮しているからです。芸術というのは、音楽に限らず例えば絵画を例にとると上手に描けているかどうかなんて問題ではなく、そこに画家の人生が凝縮しているかどうかが問題なのです。絵画だけでなく、芸術の不思議はそこにあると思っています。芸術には人生が縮図となってなあるのです。

未完成交響曲の不思議はシューベルトという作曲家の人生の不思議でもあります。私はシューベルトの伝記を何冊か読んだのですが、特にこの人物に関しては伝記のようなものがあてにならないという印象を持っています。シューベルトは音楽から彼の謎解きをしなければならないのだということです。

彼の音楽は、無重力です。もともと音楽は物質的なものとの関係が薄いのですが、彼のと特徴を言い表すには白昼夢のような形容によく出会います。確かにそういうところがある、ベクトルの定まらない音楽なのです。

未完成の演奏は演奏する人たちがこの無重力に吸い込まれてしまうと、印象の薄いつまらない曲になってしまいます。かといって無理やり地上に引き摺り下ろしたような演奏でもシューベルトの音が硬くなってしまい、シューベルトの音が聞こえてこないのです。無重力を無重力として認めることができないとシューベルトはグロテスクになってしまいます。この意味で不思議な音楽家で、長いことシューベルトの音楽は、音楽愛好家たちからも理解に苦しむ、演奏の仕方がよくわからない作曲家だったのです。シューベルトへの評価は最近になってやっと定着したのです。

友達の中にいい奴なんだけど、どう付き合ったらいいのかわからないというタイプがいるとすると、そんな感じです。いい音楽で、大好きなのに、いざ演奏するとなるとどこに焦点を合わせていいのか見当がつかないという代物です。

先生をしている方の中には、どのように付き合ったらいいのかわからない生徒がいるようなものです。理解しようとしても無理ですから、慣れるしかないのかもしれません。

私はシューベルトの未完成交響曲と長いこと付き合っていますから、習うよりも慣れろの段階はクリアーしていると思います。ですからもう少し深いところが知りたいのです。

こんなふうに感じています。

シューベルトはこのような音楽を残すことができたわけですが、それは同時に未来に向けて一つの財産を残していったということでもあります。それは課題と言ってもいいのかもしれません。この後何百年も音楽はシューベルトの未完成交響曲から栄養をとることができるような気がしならないのです。シューベルトは今始まったばかりの音楽の世界の入り口に立っているのです。