意訳の醍醐味

2026年5月13日

翻訳という仕事には色々なルールが伴うもので、翻訳者の好みがまかり通らないもので、翻訳者の個性が強く出た翻訳は評価が二分される様です。個性の強いやくは意訳と称され、場合によっては誤訳扱いされてしまうこともあります。無難なのは直訳ですが、そっけないつまらないことが多いです。
翻訳に際しては押さえなければならない文法があり、言葉を説明した辞書に従い、さらに決定的な原文の文脈があります。外国語を日本語に翻訳するのであれば、ある程度自然な日本語の文体に置き換える必要があるのですが、原文に忠実になればなるほど日本語離れしたものになってしまいます。翻訳には翻訳者の主観がどうしても入ってしまうものです。それを踏まえた上で、できだけ一般的であることが求められているということです。
原文に忠実にすると直訳になり、日本語で読んでもよくわからない原文そのまま日本語に読者は困ります。出来上がった日本語が読者に通じていないということもしばしば起こります。
いい翻訳、興味深い翻訳はギリギリのところまで主観を貫いている翻訳なのではないかと思っています。日本語としての読みやすさを踏まえ、原文の文脈を維持しながら日本語らしくするということです。

昨今はAIが人間に変わって翻訳する時代です。翻訳機というのは旅行者だけでなく世界会議の場ですらも大活躍しているのです。AIには膨大な量の辞書が記憶されています。もちろん文法的な解釈も豊富で正確です。どちらにしても一人の学者では太刀打ちできないほどの量ですから、翻訳も期待できるのですが、AIの翻訳が一人の翻訳者の翻訳より優れているかというと、必ずしもそうとは言えない様です。AIの翻訳は文献的には原文にそぐっているので正確な翻訳なのですが、翻訳された文章は味わいのないものが多い様です。間違っていないということがとにかく大事なことなのですが文章は意味の正確さだけでなく、文体の味わいで理解しているところもあります。人間がするどの翻訳にも翻訳者の癖、個性、そして言語能力であり、言語感覚といったものが加味されているので、AIと比べると不純といえば不純なのでしょうが、味わいはあります。文体もその人なりの文体です。

ドイツの生活も五十年になりますから、ドイツ語でほとんど不自由なく生活できるのですが、小説は今でも日本語に翻訳されたものを読みます。翻訳のないものはしょうがないのでドイツ語になりますが、日本語で読む方がスピードがあり小節などの持つ緊張感にはそのスピードが必要だからです。探偵小説を辞書を引き挽き読む姿を考えてみてください。007のジェームス・ボンドがアタッシュケースなりボストンバックを手に飛行場を颯爽と歩く姿は粋なものですが、ゴロゴロとスーツケースを引っ張って歩く姿で登場されては幻滅で、もう007の世界ではない様に、探偵小説を読むにはある程度のスピードが必要だというわけです。著名な英文学者たちも小説は翻訳でと言っています。
ところが思想的な本や専門的な文章を読むときは状況が異なります。その文章の奥を知りたくなります。言葉になりきれていない意志なり、深層心理なりの部分です。そもそも著者は何を考えていたのかという辺りの景色が見たいのです。そうなると一般的に翻訳されたものというのは、どうしてもピンが合わないので自分の言葉にしないと納得がゆかないのです。そこで徹頭徹尾意訳をします。自分だったら「こんな風に言う」と言うところまで噛み砕いて訳します。自分で納得できる翻訳になる頃にはもう原文から相当離れていますが、言葉の奥の深いところでは同じ方向を向いているのです。

AIのことで付け足すと、音楽の演奏の世界を見渡すと、しばらくするとAIがするようになる日が来るのではないかと思えるほどの勢いです。
しかしです間違わずに演奏すると言うことであればAIに軍配が上がるとは思うのですが、演奏者の個性という点に関して言えば、個性をデーターをものにして作り上げるのは今はまだ無理の様です。いつの日か可能になるのかも知れませんが、それまでの間AIと人間の個性との間に何が横たわっているのが何なのかを考える時間がありそうです。
私はAIが絶対に弾けないようなライアー演奏を目指しています。文体のある演奏をです。

誕生日

2026年5月11日

四分の三世紀ほど生きてきました。
今日の日を迎えて思うことというのは、今までどうだったかより、漠然とですがこれからどうしようとということです。今朝起きて、ほぽ南の空に半月がかかり、東の空が色づいてきた時に思ったことです。
こうした思いが湧いてくるとは正直我ながら驚いています。
特に強く思うのはこれからはもっと感じながら生きてゆきたいということです。正しいとか正義とかいうことに振り回されることなく、感じることに裏打ちされた人生です。emotionという出来上がった心の状態ではなくFeelingの方で、感性豊かに感じながらという人生です。かといってただ感覚的にというわけでもないのです。私が言いたい感情というのは意外と言葉にするのが難しいもののようです。
人間の感情という部分にはずっと関心があったのですが、感情というのは、情に流されることでもあるので、実に曖昧なものとして扱われ、軽んじられ過小評価されています。真剣に取り組んでいる人が少なく、理性、真実、倫理というある程度形をとるものが優先する中、消えてなくなる様なものですから置き去りにされてきた部分のようです。
感情は主観的なので客観を重んじる科学の世界とは疎遠です。数学も感情を排除します。今日の常識からすると客観というのは魔法の杖の様なもので、みんな客観の魔法にかかっていますから、その魔法にかからない感情は除け者にされ、部外者なのです。
しかし私は魔法にかかって立派なことをいう人ほど当てにならない人はいないと思っています。特に人を見る時には感情の部分が安定しているかどうかをいの一番にみます。感情というのは普通は心と同一のもののように見られています。心に根を張っている様なもなのです。感情が根付いている心は安定しているため、そのような人がまずは信じられる人となります。知的な人、行動力に優れている人などは時代の趨勢に乗っているので見栄えはいいですが、実は心の中には根っこがなく心配なものを含んでいるものです。

感情を培っているのは美と言われている世界だと思っています。実は真実の中にも美は生きていますし、倫理の中にも美は生きています。何事にも美しいと感じられるものが生きているのです。耽美的な美に溺れるのは病的な傾向にあるものなので、それは健全な美とは別物だと思っています。美は過ぎ去ってゆくものでもあります。感情も過ぎ去ってゆくものです。もちろん優れた芸術作品や工芸品などは観賞用として大切に保存されます。しかし美は誕生の瞬間に生まれるインスピレーションです。インスピレーションの様に常に生まれ、常に消えてゆくところに美の本質があるのです。美は理屈ではないので、今日のような知性の優った状況で美は学問の対象となってしまっていてどうしても知性に振り回されているのです。情報というのは知的な社会の中の知性の副産物と見ていいものです。あるいはびは作品として商品となり、価値がつけられて取引されるものになってしまったのです。
美を生きるというのは、今を、一瞬一瞬を生きるということで、常に新鮮な自分でいなければならなけばいけないということです。
感情で生きたいということはこれからはもう歳を取らないということでもあるのかもしれません。

一つの楽器の音の追求

2026年5月9日

ピアノという楽器は、いつの日か今日のピアノに落ち着いたのですが、それまでには長い歴史がありました。打鍵鍵盤楽器というからには打楽器であり弦楽器であり鍵盤楽器であるという起源を持ち、それが一つの楽器として統一されたのですが、一朝一夕にして三つの起源がまとまったわけではありません。
打楽器であるので太鼓が起源になっていますから古く遡ることができます。一方弦楽器であるということはギリシャの時代にヘルメスが亀の甲羅に牛の腸で作った弦を張って作ったリラという楽器が起源と言えますから、打楽器からすれば新しいことは新しいと言えます。ピアノと同じ鍵盤楽器であるチェンバロは弦を独特の爪で引っ掻くのでピアノとは違い打鍵楽器ではないのです。弦を叩くことで音の強弱の幅が拡大されてダイナミックな表現が可能になり、弱音であるピアノと大きな音を意味するフォルテが思いのままになるということで、ピアノフォルテという名前の楽器となり、いつの間にかフォルテの方が省略されて、ピアノという名称でおさまったのです。
チェンバロもピアノも鍵盤楽器でありながら、実際は相当違う楽器だと言えます。オルガンも鍵盤楽器であるのですが、弦を持たないで、パイプに空気を通すことで音を作りますから、楽器としては鍵盤楽器でありながら別のジャンルに属しているのです。
ヴァイオリンも同じように長い歴史があります。弦を張っているのでギター属の楽器と同じ様に扱われてもおかしくないのですが、弦を擦るか弾くかの違いは大きいものです。ヴァイオリンもビッツカートという弾くテクニックを持ちますが、音量が擦った時ほどではなく、表現力として使うことができないものです。とはいうもののヴァイオリンはギリシャのリラから発生しているもので、弦を擦るようになるのは10世紀辺りからで、17世紀に出されたヴァイオリンの楽譜は献呈の言葉に「四弦のライアーのために」という言葉が添えられていますから、ヴァイオリンがライアーを起源にしているという意識はその頃まであったと考えられます。
弦を弾くか擦るかの違いは決定的です。弾く時には長い音符は消えてしまいます。全音部は弾いた時には鳴っていても最後は音が消えてしまい聞こえなくなってしまいます。全音部は余韻でしか体験できないのです。ところが擦る時には全音符はずっと鳴らすことが出来ます。消えることなく鳴り続けています。どちらが正しいのかということではなく、どのように音楽的効果に違いがあるのかということでしか論じられないものです。私の経験からすると、撥弦楽器の方が余韻と緊張で音楽を語れる分、情感と哀愁がある様な気がします。ただし主張する力は弦を擦る方が優勢で、表現の幅もある様な気がします。また弦を擦っている時の緊張感が薄れると間伸びしただらしない音楽になる危険性もあります。
ピアノは弦を叩いて音を出しますから打楽器でもあるのです。打楽器といえば太鼓、ドラ、鐘、トライアングル、シンバルがあります。ピアノのように叩いて音を作りながら音階を持つ楽器に木琴、マリンバがあります。ピアノの特徴は打楽器が直接音源を叩くのに色々なメカニズムが組み合わさって叩くということです。音を作るプロセスが違うのです。ここがピアノは誰が弾いても音が出ると言われる所以です。もちろん特上の音が出せるまでには時間がかかるのですが、メカニ任せている分手作りの音というところからは離れているので、逆にそこに魂を吹き込める様になるとのは並大抵ではないのです。
最後に私のライアーの音について。
私はライアーを、多くの人がヴァイオリンの弦を擦る様に弾くのに対し、打楽器的に弾いていると思います。和太鼓や鼓の人たちから興味ある貴重なお話を伺ったときに感じた「叩いているようで力を抜いている」という両立し難いようなスタンスです。太鼓を叩いている時、太鼓がいちばんいい音が出るように叩くように、弦が一番いい音を出せるようにということを考えているのです。ここにこだわると上手に音楽するということから少し外れてしまうかもしれないと感じながらです。