体験としての五感と思い出の中の五感

2025年9月26日

年齢が増すに従って思い出すものが増えて行きます。思い出は記憶という力によってもたらされるものです。記憶力は年齢とともに衰えてゆくのですが、記憶というのは生命力とどの様に関係しているのでしょうか。

シュタイナーは記憶を一般の科学者とは違ったアプローチから説明しています。先ほどの生命力との関係はシュタイナーの考え方からすると、深い結びつきのあるものです。生命力のことをエーテル体と呼びますが、このエーテル体は、誕生した時に両親から遺伝した体を、幼児期を通して今生の生命活動をするのにふさわしいものにするために歯が生え変わるまで仕事をしています。その仕事から解放されると本来のエーテル体としての仕事に携わるのですが、その仕事の一つが記憶というものです。様式が過ぎると記憶が活発になりますから、学校にゆき色々なことを学ぶことができる様になるのです。

記憶には視覚的な映像だけでなく、触覚、聴覚、味覚、嗅覚と五感の全部が登場してくるのは驚きです。小学校の時、当時住んていた池袋から今の幕張メッセの辺りとか、デスニーランドの辺りに潮干狩りに行ったのですが、その時の砂の感触を今でも覚えています。海からの磯の匂いは思い出せませんが、のんびりした砂浜、そして砂の色は覚えています。その時持たされた小さな熊手で掘っている友達の姿、そしてその時一緒に行った人たちの何人かも思い出せます。当時は新鮮な体験だったものが、この年になると思い出して生きているのです。そしてそんなことを思い出していると、不思議なことに元気に鳴るのです。思い出すというのは元気の源でもある様です。

去年家内の妹が亡くなりました。彼女のことは映像で思い出すことがほとんどですが、握手した時の子どものようなぽっちゃりした手の感触も、話している時の声も、笑い声も未だに鮮明に思い出せます。共に共有した時間と空間が懐かしく思い出されるのです。もちろん思い出すと寂しいですが、別の間てからするとやはり元気をもらいます。

思い出の中に現れる五感からの記憶がこれほど鮮明なのにはいつも驚かされます。思い出の中の五感を見ても感じるのは、語感というのは私たちの生命力と深く結びついているということです。そんな時に五感を通して体験するということの大切さを改めて感じます。幼児たちは五感を刺激されながら生命力を刺激され体を作るのでしょうが、五感によって元気をもらうからなのでしょう。ある時科学技術の先端でお仕事をされている方とお話しする機会があり、その時話題になったのはやはり五感の大切さでした。将来の技術を開発してくれる人を育てるには、幼児期に思いっきり泥んこになって遊そんでもらうことが一番ではないかと考えていらっしゃる様でした。今ある技術、コンピューターの様なものですが、それらを使いこなすことを幼児期で始める必要はなく、小さい時は自然の中で木登りしたりして、五感からの体験をたくさんすることで、かえって大人になってから未来を切り開く力になるとおっしゃている様に聞こえました。

思い出の中で記憶として残っている、音や色や匂いや味、そしていろいろな音や言葉の響きは、記憶という別のレベルのものとなってはいるものの、後になってそれを追体験することは、幼児期の子どもたちの五感を通して体験する生々しいものとは違っても、共通しているのは生命力に働きかけているということのようです。どちらも元気の源なのです。

 

声というものは

2025年9月25日

声について語る時にまず触れておかなければならないのが、声の肉体的な響きです。肺からの空気が流れ時に声帯を震わせて響くものです。声帯は繊細な筋肉でできたものですから、体の緊張が声帯を固めてしまうと、詰まった声、聞きにくい声になってしまいます。体をリラックスさせないと声は伸び伸びしてこないものなのです。声には肉体からだけでなく、その人の心の有様も聞くことができます。優しい人は優しい声ですし、威張っている人の声は、偉らぶって聞こえますし、人に厳しい人の声は固い、緊張した、怒ったような冷たい声です。まさに心そのものが響きになっています。心そのものが声だと言ってもいいほどです。さらに声には人柄、人格が聞き取れますから、人間の精神性を計るバロメーターでもあるのです。心の深さ、懐の深さというのはその人の精神性のことですからね精神的な人の声は自ずと深いものになります。

声は三つの要素からなっているわけです。ですから発声練習などで肉体的な発声訓練をしただけで声が良くなることはないのです。声を多くの人から喜んで聞いてもらえるような柔和なものにしたければ、心を柔和にしないとならないのです。心がとんがっている人からは優しい声など聞かれるはずがないのです。心の性格的なものではなく、心の品格というのか精神的な深みというのは、いわゆる修行という手続きを通らないと得られないものです。修行とは言っても座禅を組むとか、滝に打たれるとか、絶食をするとかの修行ではなく、人生を誠実に生きるという修行のできた人の声には深みがあります。逆に自分勝手に生きている様な人間の声は薄っぺらで聞いていてイライラする様なものです。

緊張のない声

緩やかな柔和な声

しっとりと深い声

と三つの段階で見ておくと声とその人の関わりはわかりやすいし、見間違えない様です。

 

声の世界に入ると、声は十年かかりますと言われるのですが、それもそのはずで、精神的な深みまで求められるとなると十年では足りないくらいです。一生かかるものと覚悟してかからないといけないものかもしれません。

私はすでに三十年前から声のことを講演と並行してやってきましたが、私が考えているような声を一緒に育てたいという人は、例外的に一人か二人はいましたが、ほとんど現れませんでした。今は七十半ばですから、これからそういう人が出てくるとも考えられません。私が考えている声は多くの人には受け入れていただけなかったということの様です。

しかし私が千回以上の講演会を三十年の間してこられたのは、ひとえに私の声のおかげだと思っています。この声から発せられる響きは単なる響きではなく、人によってはイメージを含んだ響きなのだそうです。声でもって体がほぐされて、緩んだところにイメージが生まれるのだそうです。そんな声なのに、この声をどうにか自分のものにしたいと考える人がほとんど出てこなかったのはなんでなんでしょうか。私は、きつと声というのがあまりにも身近なものであるためなのかもしれないと考えています。身近すぎるとありがたみがないものなのかもしれません。講演会などでは、身近な声のことではなく、聞きなれない難しい言葉を散りばめる方ががありがたみがあるのかもしれません。難しくてよくわからないというのは有り難みを増長してくれるものの様です。

YouTubeを見ているときに私が惹かれる動画は決まって誠実さがあるモノです。そのバロメーターになるのが私の場合はその人の声です。いい声とかというレベルの基準ではなく、その人の人柄、誠実さが伝わってくる声です。その声で話されているものは見ていて気持ちがいいです。内容が一見凄そうでも、誇張したモノであったり、声が浮ついている人のものは信じるに足りないと思いすぐに切ってしまいます。我ながら声は信じるに足るものだと思っています。

人を見るときに、表情とか、目つきのようなものもとても大切な要因ですが、それは器用に誤魔化せるモノのようで、私は声だけは誤魔化せないと思っているので、声を基準にしているという次第です。

 

つい他人を貶めてしまう癖

2025年9月15日

プロの音楽会でも弾き間違いは避けられないものと言ってもいいくら間違えるものです。有名なピアニストが、「演奏会の後には自分が今日の演奏会で弾けなかった音符の音がたくさん散らばっているんだ」、と言っていますが、ピアノの大家ですらそのような状況ですから、普通の人は間違って当たり前と思っていいと思います。

ところが新聞評となると辛口の批評家が手ぐすねを引いて待っていますから、全体的には素晴らしい出来だったと言えるのに、ちょっとしたところで間違うとそこをやたらと誇張してさぞ演奏が良くなかったかのような批評文を書いたりします。私はそこのところがどうしても納得できないのです。粗探しなんてだいの大人がするものではないと思っていますから、重箱の隅っこを突っつくような粗探しはすべきてはないとその様な記事を読むたびに思います。人のケチをつけるってそんなに楽しいことなんでしょうか。性善説を信じたいのですが、そういうものに遭遇すると性悪説の傾いてしまいます。

先日のブログで褒めるるいうのは難しいということに触れましたが、今日はけなすというのはいとも簡単にできてしまうということに注目したいと思います。

極論をすれば、他人を貶めるということです。それによって自分が優位に立てるということでしょうか。人間というのはいつも上下関係を意識して生きているものの様です。いつも上位にいたいのです。韓国に呼ばれて行っていた時に、誕生日が1日でも早いと目上ということになると聞いてポカンとしてしまいました。年上の人に対しては敬語を使わなければならないということでした。そんなに細かくこだわる必要なんかないではないかと反論しましたが、受け入れてもらえませんでした。他の国ではカーストという制度もありますし、西洋社会の中では人種差別は遠いい昔の話ではなく、今でも露骨に見られるものです。みんな自分が優位に立ちたいのです。

自分を特別のものと感じたい人たちは、お役人さんの中には五万と居るみたいです。というのかそういうことを知って官僚になるのが本音の様です。役人、官僚、議員、代議士と本当は国民のために働く人たちが、一番偉そうな顔をしてフンズリ返っているのは、本末転倒です。それでは社会に支障がきたされ、社会そのものが機能しないのです。私がハンブルクの小さな障がい者施設で働いている時、何のきっかけか理事に選出されて短い期間でしたが理事を勤めていたことがありました。その時に先輩の理事に、「理事というのは偉いということではなく、施設で働いている人や施設に子どもを預けている親御さんのために、仕事を代行をしているであって、そこを履き違えると施設の運営に支障をきたすことになる」とはっきりと言われたものでした。

それなのに今の議員、代議士たちは目の前にちらついているもの、特にお金とか女とか天下りの地位に釣られてとんでもないことをしている様に見えるのです。自分達はますます偉くなったと勘違いしている様なのですが、恥を晒しているだけです。お米はたくさん実ると穂が自ずとしたの方を向くものです。「実ほど頭を垂れる稲穂かな」という諺にもなっている例えですが、偉くなった人はみんな選ぶっている様では、社会は支障をきたしてしまうのです。それは今だれる目にも明らかになっているのではないかと思います。

しかしこれは人間の業というのか、一朝一夕でよくなるものではないと思うのですが、言葉にしてみました。