音楽の未来
娘がシュトゥットガルトの放送局でオーケストラのマネージメントに携わっている関係で定期公演の年間チケットで毎月コンサートに足を運んでいるのですが、どうも最近は感動することが少ないように感じるのです。昨日もオーケストラの音楽を聴きながら、原因が私にあるのか、それともコンサートという形式にあるのか、それとも音楽そのものにあるのかを考えてしまいました。
特に昨日の演目はとても偏っていて、今も生きている現代作曲家のものが三つのあとにドビッシーの海でした。現代音楽に偏見を持っているわけではないと思うのですが、聞く度に「何を伝えたいと思っているのだろうか」ということが脳裏を掠めるのです。音楽はその時代を如実に反映している物だと思っているので、現代音楽は現代という事態を反映している物なので、現代という混沌とした時代そのものだと言って仕舞えば、全く時代を反映している音楽として評価すべきものと言えます。
しかしそれだけでは芸術というものの役割の半分しか果たしていないように思うのです。芸術は時代を反映していると同時に未来を指向するところにその存在意義があるので、その意味で言うと、現代音楽は今の混沌を反映しながら、そこに未来を暗示するものがあってほしいのです。こんな時代に未来なんかないと行って仕舞えば身も蓋もないのですが、それは一般論で、芸術家であると自負するならば、それでも未来が暗示できる人であってほしいのです。時代を反映しているだけであれば、自分に翻弄され漂っているだけなので、そんなのは目の前にあるのであらためて音楽で聴くこともないのです。
今回の演奏会を通して強く感じたのは、現代音楽というのはとても知的なものだと言うことでした。終始感じていたのは知性の産物だということでした。それは現代人の思考というものがもっぱら知性からのものに頼っているのと見事にシンクロしていたのです。そこに気づけたことが今回の音楽会の一番の贈り物です。
思考というのは、私の感じるところでは、知性を超えているものなのです。知性が思考を操ると、思考は知性が好む辻褄の合ったもの、論理的なもの、合理的なもの、証明できるものに陥ってしまいます。理屈にあっていることが思考の中心に居座ってしまうのです。思考はそんなつまらないものではなくて、もっと大きなところから力から力をもらって羽ばたいているものなので、辻褄が合わなくても良しと言えるものなのです。
思考は、想像力、直感、直覚から流れ込んでくるものから成り立っているものだと私は信じています。ですから辻褄というものや、証明という手続きに捉われないで、矛盾したものを含んでいて当然なのです。思考が辻褄合わせや証明することに囚われていたら、結果は明瞭です。窒息してしまいます。未来に向かって思考し始めるとそこには可能性というものの中でものが展開されてゆくことになります。未来は可能性ですから、未だわからない未知なるものであって、分かるということだけではなく、分からないこともそこには当然居場所があるのです。
今回、三っの現代音楽を聴いていて脳裏を掠めたのは次のようなイメージでした。もし大都会の全部の道路が行き止まりになってしまったら、というものでした。道路は次へ次へとつないでいるものなのに、どこかで行き止まりになってしまうと、向かう次が閉ざされてしまい立ち往生の状態になります。昨日聞いた音楽はまさに立ち往生状態でした。次に行く道が見つからないのです。ヒステリーになったり、落ち込んでしまったりの繰り返しで先が見えないのです。現代音楽が時代を反映しているものだとすれば、今思考が知性に振り回された結果、思考の道が行き止まりになっていることを警告しているのかもしれません。このままでは思考が危ない、窒息してしまう。思考を救わなければと身をもって音楽を通して言っているのかもしれません。ただ今は残念ながらまだ警告で終わっているようです。