あれかこれか、あれもこれも、あれでもないこれでもない
悩み多き人生の中で私たちの選択の方法は三つあります。
一つ目は、あれかこれか。これが一番オーソドックスなものかもしれません。二つ目は、あれもこれも。欲張っているともおおらかとも取れるものです。三つ目は、あれでもないこれでもない。これは相当問題があります。消去法的なので不幸な人をイメージしてしまいます。
ということで三つなのですが、これ以外にはないというのも面白いものだと思っています。
人生というのはあれこれと悩みながら生きているわけですが、一人の人間の中だけでなく、例えば宗教の選択になると、必ずあれかこれかの選択が迫られます。キリスト教のような一神教にあっては神様はいくつもあってはいけないので、自らが信じている神様以外はないわけですから、それ以外の選択方法は考えられません。キリスト教の歴史を見ると、キリスト教を選ばなかった人たちはみんな殺されたのです。アフリカでもアメリカでも生き残るためにはキリスト教徒にならざるを得なかったということです。こうして世界を征服して世界宗教になったのです。
日本の宗教観はこれもあれもと言っていいかと思います。八百万の神様がいるのです。すべての自然現象の背後には神様がいると考えられています。仕事をする同区の背後にも、食べ物の背後にも、木や草や花にも、虫にも神様がいるのです。新しい宗教が入ってきても八百万の神の中の一つに組み込まれてしまいますから、日本側すらすると「どうぞ」ということなのですが、キリスト教やイスラム教やユダヤ教などの一つの神様しか認めない側がもんだんを感じているだけです。キリスト教が国民の1%にも待たない数しか信者を獲得できないでいる日本ですが、一つの理由は、一神教を貫いているためだと考えているからではないかと思うのです。日本人的にはなぜもっと寛容に考えることができないのかとただただ不思議てす。
輪廻転生という考え方を見ても、今の人生だけでなく、他の人生を認める考え方と、それを否定する考え方で別れます。私は両方を認めるものです。この人生は一回きりです。これは紛れもないことです。それははっきりしています。しかし他にも人生があったと考えることは、否定する材料が乏しすぎます。時間が連綿と続いているのですから、あると考える方が自然でもあります。むしろそれを否定する材料を見つける方が難しいのではないのでしょうか。最近では前世の記憶を持った子どもがたくさん生まれているようで、それを否定するのは逆に困難です。
一回きりの人生というものは全く正しい考えです。しかしいくつもの人生があったと考えるのも全くありうるものなのです。両立できる考えだと私は考えるのですが、あれかこれか派はどうも納得がいかないようです。ただ時勢は変わってきているようで、他生の縁という考え方も広がりつつあるようにも見られます。
あれでもないこれでもないと言う極端な消去的方法は、人生を否定しているように見られがちですか、必ずしもそうではなく、冷静に問題を解決するときには、いくつかの前提を吟味しながら、これでもない、あれでもないと消去することが重要なプロセスになります。
知的である、知性のある思考というのは衝動的なものにブレーキをかけるような役割が与えられているようです。水をかけるという言い方がありますが、まさにそれです。しかし思考一辺倒になるとなんにでもブレーキをかけてしまうことになり、あれもダメ、これもダメということになってしまいます。小さな子どもの前でこれをやってしまうと、子どもは遊ぶ意欲を失ってしまいます。意志の芽を積んでしまうことになりかねません。
現代社会はこの消去法が幅を利かせています。科学的に証明されていなければ事実ではないというわけですから、正しいことと信じているだけのところに水をかけているのです。水掛論の極まった社会と言えるのかもしれません。これを支えているのは極端に走った知性信仰ですが、それと共に不信感という信じることをよしとしない社会的な風潮も見逃せないと思います。信頼感というのは人間視野界を形成するのに大きな力の根源でもあるからです。
幼児期の子どもには先天的になんでも信じてしまう能力が備わっています。模倣力の源となっている力です。信頼する力がなければ、周囲を模倣することなどしないものです。信頼は一つになるということですから、今真似をしているものと一つになろうとしているのです。意志の力です。そしてあれもこれもと批判的に選択するのではなく、なんでもかんでも、あれもこれもと吸収してしまうのです。この模倣力がなければ人間は言葉を喋る存在としては存在していないはずなのです。大人は思考で外国語を学ぶので、潜在的にはその言葉と距離を置いてしまっているということで、子どものようには習得できないのです。子どもに帰ればいいのですが、それが出来ないので学問的に文法を手がかりに一生懸命理解しようともがいているのです。
日本的な八百万の神などというのは、西洋的一神教からすると子ども騙しに見えるようです。確立された教義がないのは宗教とは言えないと見下されるわけです。教義などと言うのは言葉で例えれば文法のようなものですから、文法で言葉が喋れるようにならないように、教義で信頼が作るものではないのはないかと考えるのです。
これからの人間社会の中で、あれかこれか、あれでもないこれでもないが今までのように幅を利かせるとなると、明るい未来が見えてこないような気がしてならないのです。