ユーモアの新しい展開

2025年7月15日

春に日本にいる時に、ある方から「ユーモアはヒューマンからきているようです」と言われたのです。言葉としては似ているけど、言語学的に共通性を見つけるのは難しいかもしれません、とその時は答えていました。

しかしこの指摘は意外と本質をついているように感じるようになり、段々と「そうかもしれない」という方向に変わってゆきました。ユーモアというものの本質を考えれば考えるほど、事の深刻さは増してゆくのです。ユーモアというのは生きてゆく上で一番大切なものだとはいつもブログで書いてきましたし、今でもユーモアが人間そのものだという考えに変わりはないのです。その考え方がユーモアとヒューマンを結びつけるのにやぶさかでないのは、実は明瞭なことでした。

特にヒューマニティー、人間性ということを考えると、そこでユーモアは欠かせないものなので、ユーモアとヒューマンはますます近づいてゆきます。ユーモアのない人生なんて人生とは呼べない筈です。そんな人生なんか考えられないわけです。

ユーモアは言葉的には水と深い関係のあるものです。その水ですが、生きてゆく上でなくてはならないものです。水によって生命が生まれたとも言えるものです。十八世紀頃までは人間の細胞は水から作られていると考えられていたと読んだことがあります。

人間的であるということを考えるとき、どこに中心をおいているのか、考え方の違いで色々あるようです。ホモ・サピエンス(賢い人、考える存在)と考える人もいます。オランダの人類学者、ホイジンガはホモ・ルーデンス(人間は遊ぶ存在)であると言っています。ここに人間はユーモアを持つ存在である、というのを加えることになんの不思議も感じないのです。

もちろん人間にとって一番崇高なものは「愛」に違いはないのです。しかしこの愛はあまりにも都合よく歪曲されて人類史の中で翻弄されてしまいました。可哀想なほど揉みくちゃにされてしまいました。そんな中で「愛」を持ち出すのは気が引けてしまいます。

ユーモアがあるというのは、人間は機械ではないということに等しいと考えます。そもそもユーモアというのはウィットのような面白おかしい冗談めいたことなどではなく、一段グレードの高い、ずっと見えにくいもので、あえて言えば生きるための源泉と考えたいのです。精神性のある霊的源泉です。ですからユーモアを失ってしまうと人間は乾涸びてしまい潤いをなくし擦り切れんばかりの苦痛な状況の中を生きることになります。物質主義の中で悲鳴をあげてしまうのです。ユーモアがあれば色々な問題がスムースに解決することだってあるのです。ユーモアがあるということは人間に寛容をもたらすので、最も人間であると言っていいと思うのです。これから人類が向かう方向はユーモアを備えることであると思っています。

ユーモアを邪魔するものが、あるのです。ユーモアを馬鹿にしているものが、あるのです。ユーモアなんかなんの役にも立たないと考えているものが、あるのです。困ったものです。何かというと「真面目」「真面目さ」です。ユーモアの代わりに真面目が横行してしまうと、意外や意外大きな悲劇が生まれます。真面目は精神性が備わっていないからです。

昨今の社会状況を見ていると、人間はホモ・サピエンスとしての考えることも、ホモ・ルーデンスとしての遊ぶこともどこかに置き去りにしてしまったようです。真面目が思いのほか深く蔓延しているので、人間はユーモアを持つことも、ユーモアを理解することも忘れてしまった存在になってしまったようです。

私は賢い人間も魅力を感じますし、遊びを心得た、遊び心のある人間にも魅力を感じますが、心情的には人間にユーモアを理解してほしい、人間にユーモアが備わってくれたらと一番願っています。

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