安心、安心感について

2025年7月16日

日本人にとって安心とか安心感はよく知られた感触ですが、ドイツ語の中に安心という言葉に相当すものはありません。ドイツ語だけでなくヨーロッパの言葉には安心、安心感がないのです。

セキュリティーというのは防犯という意味ですが、これが安心ということなのです。犯罪から守られているということです。アメリカの前大統領が四メートルとも五メートルとも言われる塀を巡らした家に安全に住んでいるのです。安全は知っていても安心には無縁の人たちなのかもしれません。

私は安心ということが人生の中でとても大事なものだと思っています。そこから色々な力が湧いてきます。

長旅から家に帰って、一番ホッとするのは自分のベッドに潜り込む時です。なんとも言えない安心感は特別です。三十年の間、毎年日本に二ヶ月くらい行っていて、しかも春と秋の二回、しかも日本中を毎日違うところにいたので、ホテル住まいが余儀なくされていました。ところが、そういうのだと思ってしまえば、いつしか気にならなくなってしまえるものでした。もし寝不足が続くようだったら、次の日の仕事に差し支えることになります。

日本滞在中は、公園の合間をみては両親の住んでいた逗子に立ち寄っていました。そこに帰ると自分の部屋があって、とりあえずは自分のベッドで寝ることができ、ひとまずは落ち着くのですが、住んでいる家ではないのでやはりあくまでも仮の自分ベッドでした。

日本を発って十五時間飛行機の中にいて、ようやく本当の自分のベッドに入って横になった時の、体がベットに溶けてしまいそうな感触に浸っていると、初めて帰ってきたと実感できたものです。延べて百往復ほどしたのですが、毎回その安心感は新鮮な感触でした。ところが、自分のベッドでゆっくり熟睡できるのかと思いきや、難敵の時差ボケがあって、二、三時間で目が覚めてしまったりするのです。

自分の寝床の安心感のほかには、やはり部屋全体が作り出している雰囲気も重要な安心感のための道具立てです。以前に、持っているものを整理しようと、断捨離の真似事ですが、本やレコードといったものをずいぶん処分した時に不思議な違和感を感じたことがありました。自分の部屋が自分の部屋で無くなってしまったような感触です。何かが欠けているというのは不安とまでは行かないまでも、部屋の持つ落ち着きがなくなってしまうものです。人間というのは些細なものに安心感を得ているのだと初めて知った時でした。

この安心感を言い表す言葉がないというのは不思議です。安心かが得られなかったら、精神的に不安定になってしまいます。高齢の夫婦の片割れがなくなってしまうと、後を追うようになくなってしまうという実例にしばしば出くわします。他人なのに、自分の一部になってしまったパートナーの喪失は、自分という存在の一部が失われてしまったようなものなのです。もう生きている意味など見つからなくなってしまったのです。喪失感の反対が安心感かも取れません。

現代人にとって、どのように安心感を見つけられるかと考えてみた時一番わかりやすいのは、好きなことに時が経つのを忘れるくらい没頭することのようです。好きなものと一つになっている時です。一番充実した時間です。その時ほど安心感を感じることがないのですが、当の本人はそのことに気づいていないのです。気づいていないから、いいのです。好きな人と一緒にいるだけでもう十分安心感に満たされているのです。好きになるというのは、好きなものがあるというのは、とても大切なことなのです。もちろん人を好きになるというのは、最大の安心感の源です。

 

英語の「lilke」は「何々のような、似ている」という意味と、「好き」という意味があります。似ているというのは、没頭している時、没頭しているものと自分がそっくりになってしまっていることをいうのかもしれません。もちろん好きなことに没頭している時です。好きとは好きになったものそっくりになることことなのではないか、そんな気がしています。

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