音楽は音ではじまり、音が全て
ドイツの諺に「音楽の命は音」「Ton macht Musik」というのがあります。音楽に限って使われるのではなく、日常の会話の中でよく耳にするものでろをよく知っているわけです。す。その時は「話す時に大事なのは言い方であって」と言う感じで使われます。言い方と言うところがミソです。人と話をしていると、大袈裟に言う人もいれば、ほらを吹く人もいます。内容だけを聞いていると騙されてしまうものです。詐欺師はここのところをよく知っているのです。言い方、声の調子などを聞き分けられれば、中身が本当かどうかはすぐに見えてきます。また政治的なプロパガンダは見事に嘘八百の声高な叫びですから、言い方からすると騒音のようなものです。ゴミという人もいます。
物静かに、落ち着いて話す人の話はつい聞いてしまうものです。「語るなら静かにか語れ」は私がいつも心していることですが、これが一番利き手に伝わっているようです。
もちろん音楽も音で決まります。演奏会などては初めの音を聞けばその日の音楽会がどういうものかわかってしまいます。落ち着いたしっとりした音はいつまでも聞いていたい豊かな音です。小さな音がいいと言っているのではないのです。小さな音なのに気に触る音というのがあります。小さくて退屈なのもあります。逆に大きな音なのに心に響く音というのもあります。音量の問題ではないのです。演奏者の意識の問題です。
ちなみにライアーの音は小さな音と認識されていますが、私の音は、実は大きな音なのです。ただ大きくは聞こえないだけです。歌の伴奏を頼まれた時に、仲さんの音はよく聞こえるので歌いやすいです、と毎回言われます。他の人はどうなのですかと聞くと、ほとんど聞こえないので困っています、と言う返事が返ってきます。ライアーは優しく弾くものという先入観があるようですが、間違っています。優しく弾いたら貧弱になるだけです。退屈な音楽になってしまうのです。優しく弾いて聞き手を納得できるような楽器を私は知りません。全身全霊で、思いを込めて堂々と弾かないと聞き手に伝わらないものです。ピアニッシモも堂々と弾くものなのです。
ここまでは一般的な話でもあるので、楽器をやらない人にも伝わる話だと思います。ところが実際に楽器に触れると、弾くという言葉の意味のレベルが変わります。深くなるのです。どう言うことかという、むやみやたらに弾いてはダメだという話になるのです。「弾かないで弾く」という妙技が登場するのです。実際に相当の離れ業ですから、一朝一夕に習得できるものではなく、まずはとにかくがむしゃらに弾き込むことから始まります。しかし音というのは弾いてもいい音にならないのです。この事に気づく時が来るのですが、ここで「弾かないで弾く」という流れに入れるかどうかの分かれ道が現れます。どのように入って行けるのかというと、一般論的には答えられないものです。演奏者一人ひとりが見つけるしかないものなのです。しかし目指すところは「弾かないで弾く」なので、目標としては共通なのですが、方法論的なものはいくつもあるので、個人に委ねられるものなのです。
音楽性、簡単にいうと才能の話になります。普通の人は作品を上手に弾くところまでて終わってしまいます。それだけでも大したものなのですが、その先があるのです。その次が「弾かないで弾く」という段階です。誰にも開かれているものではないのです。百メートル競争を例に取ると、九秒台で走るには才能が必要です。何年も練習すればそれなりに早くなるでしょうが、その人の持つ能力の限界があって、そこで終わりです。九秒台で走るには能力が備わっていないとダメなのです。音楽の場合もそれと同じで、才能に恵まれてないと、「弾かないで弾く」というレベルには到達しないのです。演奏の奥義です。
才能の一つは音をどう聞き分けられるのかということになります。物理的には、才能のあると人もそうでない人も同じように聞こえているのですが、音楽の音には物理的な音以上のものが備わっています。作曲者と演奏者の命です。ここからは音を聞くというスタンスではなく、音が何を言おうとしているのか、音の語るところを聞くというスタンスに変わります。楽譜の音を楽器で再現するだけのところから、音がどのように演奏してほしがっているかを聞き分けないと成り立たない世界に入ってゆきます。音と対話するのです。練習して弾けるようになった音と、音の深いところを聞き分けて奏でられた音では、音の深みが違うのです。聞く人が聞けばすぐに分かるものなのです。弾かないで弾かれている音は、研磨された宝石の石のような音で、弾かないで弾くことによって飲み作られる音なのです。練習から生まれた音はまだ原石のようなものです。原石から宝石になるまでは実に長い道のりです。人の命は短くて、芸の道は長しということです。