持つべきは友
孤独は現代社会で大きなテーマになっているもので、政治の場にまで進出して、この問題の解決を試みようとしています。解決策を見つけることも大事なことなのでしょうが、原因がどこにあるのかを考えてみる必要もあります。
孤独がどのくらい深刻なのかというと、孤独死の数が急増していることも驚きですが、一週間の間誰ともコンタクトがなかったという人の数も杞憂増しているのです。華やか文明社会の片隅で沈黙した空間があるのです。
11世紀のドイツに一人の王様が、生まれた子どもが外から言葉を聞かなかった場合、初めて口にするのはなんなのかを知りたくで、親に捨てられた赤子を集めて実験したことがあります。その子たちは言葉らしきものを口にするどころか、三つになるまでにみんな亡くなってしまったのです。着るものも食べるものも十分与えられていにも拘らずです。人間は言葉かけをされないと、言葉を覚えないというレベルでは治まらず、命まで無くしてしまう存在なのです。今はまさにその大人バージョンが現代の文明社会という華やかな中で存在してしまっているのです。孤独は感情的に寂しいという心理的な問題ではなく、深刻な死に至る病なのです。
昔から持つべものは友とよく言われています。しかし困ったときに助けてくれる頼もしい人としての例えが友の様なニュアンスがあります。ある意味打算的なものを感じてしまうので、正直素直には受け入れ難いところがあります。困ったときには遠くの親戚より近くの友達などとも言います。お金に困った時などを想像してしまいます。
現代では友の意味が少し違っています。日常生活に困っている時の助けになる友ではなく、話し相手になってくれるだけでいい友なのです。言葉を交わし、心を通わせることで命を繋いでくれる存在としての友です。言葉を交わすだけで人間は命を保てるというのはもう既に証明済なのです。
お金持ちが貧乏のどん底に落ちて自殺する、そんなケースは容易に想像できますが、実際には貧乏から抜け出して財産を築いた人たちの中の自殺者の方が圧倒的に数が多いのです。金持ちになり、社会的ステータスが得られても、そこは虚無感で満ちているからです。お金が沢山あっても、周りに競争相手ばかりで、心を許せる友が居ないと知るときに感じる虚しさほど辛いものなのでしょう。
孤独死の九割が男性というのも衝撃的です。男社会と言われ、未だに、特に日本では女性の社会的地位が低いことが指摘され、弱者としての女性像が強調されていますが、孤独死の数字をみる限り、弱いのは男性で、女性ではないのです。社会的地位というのは究極は打算的な損得の世界の産物です。そこには真の人間性は微塵もないのです。利権のしがらみのような中で地位にしがみついているのですから、定年退職してその地位から外されば、その時点で人間としての価値も無くなってしまうというシステムの中で男性たちは孤独を味わうのです。男性社会には女性社会を賑わせている井戸端会議的なコミニュケーションの取り方がなく、制度化され、機能的に処理するものばかりで、その成れの果てが孤独死とも言えるのかもしれません。
打算のない友達付き合いを持っている人は幸せです。今持てはやされているAIが欲しくても持てないものなのかもしれません。AIが歯軋りをして羨ましがっているのが想像できます。計算ずくのAIの世界にはない、損得勘定から外れた、純粋な人のつながりが友達付き合いの中には見出せます。無駄なような、意味のない、ただいてくれるだけで自分から自分以外のものを引き出してくれる存在が人間は必要な様です。