主観の塊なのです
目で見た風景と、それを写真で撮ったものの間には、驚くほど違いがあります。
先日来、庭に満開に咲いた黄色いローズ・オブ・チャイナが、例年以上の咲きぶりで、写真に収めておこうと試みたのですが、何枚撮っても目で見た時の満開の圧倒感が写つらないのです。角度を変えたり、朝日の時に写したり、昼間の一番明るい時を選んだりとやってみたのですが、目で見たような姿が写っていないのにガッカリしたのです。色の感じは明るさを調節してなんとか近い色に落ち着いたのですが、全体の雰囲気がまるで違うのです。
以前にも木に止まっている珍しい渡り鳥を写真に収めようとして、シャッターを切ってみてみると、止まり木がやたらに大きく写っていて、撮りたかった鳥は目で見た時の半分もないほどの大きさにしか撮れていなかったのです。
目に見えている風景とかの姿は、見たいものが何かの働きで誇張されているのです。簡単にいうと主観的に見られたものだということです。その人が見たいものが選び出されて見えているということで、それを写真に期待すると、写真は客観的というのかそのままを寫すものなので、遠近は見た目ではなく実際を写しますから、相当違ったものになってしまいます。
視覚の世界が一番主観的に生きている様ですが、聴覚にしても、人間というのは聞きたいものをまず聞いているということで、やはり聞きたいものを聞いているという主観の世界に変わりはないようです。このこともマイクを使って録音してみると、はっきりするもので、聞きたいものよりも近くの雑音が一番はっきり録音されるのです。
感覚を通して映った世界をみてみると、特に写真やマイクを通したものと比較してみると、人間の感覚生活というのは「主観の塊」であることが納得できます。
人の話なども、よく似ていて、実は聞きたいところだけを聞いているものなのです。私の講義録を作ろうと、お話をマイクを通して録音したのですが、それが上手く行かずに、苦肉の策として主催者の十人がノートしたものを持ち寄って、私風の話し言葉に変えてみようとしたのですが、そこで明らかになったのは、十人十色というのか、一つとして同じ様にノートされた物がなかったということでした。それぞれに「仲さん、いつそんなこと言ってた」と首を傾げるだけだったらしいのです。皆さんが聞いた私の話というのはもちろん一つで、皆さん同じ話を聞いていたのですが、そこから何を自分の聞いたものにしていたのかとなると、てんでんバラバラなのです。






