直感というのは鈍感なことでもあります
直感が大切とは繰り返し言っているので十分承知されていることとは思うのですが、では実際に直感とはどこにあって、どういうものなのかと改めて問いただすと、よくわからないと言わざるを得ない曖昧なところがあります。
そこで直感を見直してみようと思うのです。
考えるとか、思考するとか論理的に順序立てて物事を整理するのとは別に、私たちはもう一つの方法を持っているということです。想像力もその一つです。英語ではイマジネーションと言います。他には着想とかひらめきというのもあります。インスピレーションです。さらに進んで霊的、精神的な意味合いが加わってくると直覚です。英語ではイントゥイションとなります。一般的にはこの最後の直角が直感というふうに考えられています。
今日問題にしている直感は思考力とは違うことは明らかです。思考は客観的なもので直感は根拠のない主観的なものだからです。思考の世界で生きている自然科学の人たちは、論理的であることを求めているので、この直感を相手にしていない人が多いです。ところがいわゆる天才的な、時代の常識を超えたような発想で科学を切り拓いて行った人たちをみてみると、順序だった思考の世界から新しい発見をするのではなく、イメージや閃きという道を通っていることが多いのです。思考が階段を一段一段登ってゆくのだとすると、直感の世界は階段を何段も飛び越えて登ってゆく様なものです。あるいは階段など使わずに恐るべきジャプ力でいっぺんに飛び上がってしまう様なものです。直感の世界に共通しているのは、主観的という側面です。そのため根拠がないと言われてしまいます。そんな根拠のないことを学問の世界に持ち込まないでほしいという具合にです。しかし根拠というのは、一般常識であったりするのでそこに囚われていることも、一つの弊害とも言えるのです。
歴史の中かで思考が最高のものとされていた時は「われ思う故に我あり」と言われ、思考され知的に物事を処理することが望まれ、そこに秀でた人が優秀な人、頭のいい人と言われたものでした。その傾向はつい最近まで続いていました。今は、あるいはこれからは必ずしもそうではなくなって行くのではないかという予感がします。
そこで直感の時代ということになるのですが、直感というのは実に曖昧なもので、根拠がなく、それぞれが言いたい放題を言うという主観の世界なわけですから、混沌とした世界にもなりかねないのです。そこで直感を審査しなければならなくなってきます。それはどのように行ったらいいのでしょうか。
人間の誠実さが問われるのです。誠実であることは単なる人間としての美徳という以上に、倫理的、道徳的に人間性の豊かさ強さ、むしろ人間の能力と評価されるべものなのです。どこかに打算があったり、エゴのために利用しようとする下心があると誠実さとは違う方向に行ってしまいます。日本語の無心、無我です。自分を解放するという意味では鈍感になるとも言えるものではないかと思います。無関心からの鈍感ではなく、自分を全開にすることからの鈍感です。鈍感は悪い意味で使われる言葉ですが、童心にも通じ、子どもの心にならなければ天国にはゆけないということにも通じるものです。
自分自身に対して誠実なれるのか、誠実であり続けられるというのは高い精神的修行の賜物です。人前で誠実さを繕うのは簡単にできますが、自分自身に向かって誠実であり続けられるということになると、並大抵の努力では獲得できない芯の強い精神性が問われます。エゴな自分ではなく、透明な自分に直感は宿るということです。
自我と自分というのをわけないといけません。自我いうのはエゴを克服したところにあるものです。エゴな自分も同じように自分ということなのですが、エゴの自分と透明な自分、つまり自我との間には越えるのが容易でない深い溝のようなものが横たわっているのです。
自分を無職透明にして行くことに尽きる様です。
直感が単なる根拠のない主観的な思いつきで終わるのか、そこに人類的な力となるものが宿るのかは意識の持ち方で変わります。意識の持ちからたを変えることで、同じ自分が180度違った方向を向く様になるものです。
直感というのは、肉体が筋肉のトレーニングをすることで優秀な肉体になるように、自分というものに対して意識的に働きかける訓練をする事で鍛えられるとも言えますが、筋肉隆々とした自分というのとは違い、透明度が増すことで、ますます透明な自分に作り替えるのです。もちろん意識過剰はダメで、そこでもやはり鈍感なということが言えそうです。






