エンパスと共同体の未来
古い日本語は「あ」という音で相手も自分も言い表していました。今日でもその名残は「あなたとあたし」として使われています。「あ」の言霊です。
「自分」という言葉を見てみると微妙な使い方がされているのに気付きます。文脈を理解していないと「話しての自分」のことなのか「相手に対しての自分」なのかが区別できないことがあるのです。たとえば「自分はどう考えているのか」は話し手が自分のことを指していっているとも取れるし、相手に対してどのように考えているのかと聞いているという意味にもなるからです。
自分と他人とをどのような関係に置くかはとても興味深い視点です。時代ばかりでなくお国柄もそこに反映しています。
かつては自我の確立ということで、自分をはっきり主張するということが、心理学や哲学、社会学などの分野で強調されましたが、最近は相手を慮るということが、相手との共存に対して多くが語られるようになっています。
相手の立場に立って感じることを最近はエンパスと言います。日本人の感覚からすると、相手の気持ちを汲むと言うのは日本文化の定石ですから、何を今さらということになりますが、世界を見渡すとこれはまだまだ例外と言ってもいいものなのです。
自己主張をメインとして来た西洋と、その反対の東洋的なものとは相容れないものが随所にあります。西洋は基本的には「我ここのあり」を高々と周囲に向かって発するものです。しっかり発して初めて認められるという文化ですから、相手に気遣うなんてやっていたら社会に置いてきぼりになってしまいます。私はドイツが長いですが、未だにこのような西洋風をやると、とても疲れてしまい自律神経が狂ってしまいます。肉体的に影響が出ることもあります。
最近色々な共同体の話を耳にします。色々な考えで、色々な人が日本でも共同体を試みています。共同体とは何かというと、一番小さいのは家族で、そこから国家まで幾つかの段階を数えることができます。今の言葉で言うコミュニティーというようですが、個人主義一辺倒になって失われたものを求めているのではないかと勘繰ってしまいます。というのは現代は家族という一番小さな共同体がすでに崩壊のきざしを見せているからです。
共同体を維持するのはかんたななことでないことです。日本に相手を慮る伝統があっても、問題は必ずあります。私は障がいを持った人たちのお世話をする共同体に十年以上いた経験がありますからそのことを痛いほど経験しています。施設の収益を人数で割って均等に分配するということから始まります。数字で出てくるものは計算で決められますが、人間の上下関係のようなもの、あるいは同僚間の力関係のような目に見えない力が働いているところに関していつもいざこざが絶えませんでした。基本的にはおな考えをもって集まっているはずなのですが、全く同じなんてことはあり得ないので、ずれがあるものなのですが、そこに対してどれだけ寛容になれるのかが問われていると感じながら当時共同体の中で生活していました。人間の間の違いを見るか、それが当たり前だと見るかは言葉いうほど簡単なことではなく、これから長い時間をかけて人類が獲得できたらいいと思っています。
どこにそのための裁量の薬があるのかはいまだに効き目のある処方箋がないようです。
一人一人の意識の改革、変革がそこでの最大の決め手になっていることだけは確かのようです。






