日本の空の下で その二

2011年6月7日

この国にはリーダーシップが育たないのだろうか。

外から見ていると良く感じることだが、日本にいるとそこがもっと切実なものと感じられる。

これは話題の人、管首相に始まったことではない。

 

リーダーである人が、公私を混同して、職務を自分の都合の延長においてしまう姿もよく見かける。

自分と社会、自分と周囲の状況、自分と他人のバランスが非常に悪いということだろう。

リーダーとしては致命的なことだ。

「甘えの構造」の言うとおり、他人依存の傾向もいたるところにみられる。

責任のなすりつけは何も解決しない。

実はこの傾向は日本社会のいたるところに蔓延している。

同好会のような小さな会を見ても、リーダーとなった人たちが、自分の都合を押しつけるというパターンになってしまう。

自己満足というレベルのことでしかないような気がする。

 

「もしドラ」、「もし経済社会学者、社会生態学者のペーター・ドラッカーがそのポジションにいたら」、といういい方が流行している。

ドラッカーはいたるところに引き合いに出されてうれしい?悲鳴をあげているに違いない。

ドラッカーの主旨は、マーケッティングとイノヴイション、周囲の状況判断と現状改革ということだと私は理解している

それは今の日本のリーダーたちに一番欠けているところだから、日本にドラッカーの考え方が深く浸透することで日本が変わるかも知れない。

 

日本のリーダーの特徴はお山の大将で、これはガキ大将の延長のような気がするのでいただけない。

なぜいただけないのかと言うと、自分という枠をかたくなに守り続けることに専念しているばかりだからだ。

そう、自己満足。

過去にこだわっているからで、そこには未来が微塵もない。

そもそも未来というのは、一人一人が、自分が変わるところから生まれるのだから。

しかし変わったふり、パフォーマンスがどれだけあることか。

つづく

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