記憶は過去のものではない

2025年5月28日

記憶というと過去に起こったことを覚えているという風に理解されがちですが、それだけではないように思っています。記憶に残っているものは、それは確かに過去に起こったことには違いないのですが、それは純粋に過去の事実だけを覚えているのではないということです。何かの力が加わって変形しているのが現実です。それは私たちが目の前に見ているものを写真に撮って見てみると、綺麗に咲いた花が印象深く大きく見えていたのに、写真を見るとずっと小さく写っているのに驚かされるのですが、それに似ています。それは私たちが目で見ているものというのは、見たいと思っているものにフォーカスしていたり、それを拡大しているために綺麗に咲いた花が大きく見えただけで、それは操作された姿なのです。遠くにあるものも同じで、それが見たいと思うと目で見ている時には大きくなっているのです。

どんな力が加わってその操作が行われるのでしょうか気になります。とりあえずはとても主観的なものだと思います。希望、願望というものに属しているものです。そうあって欲しいというものです。少し飛躍しますが、私はそれは意志ではないかと考えています。意志というのは私たちの心の中に潜在的に存在しているものです。私たちというのは、自分だと思っているものは恣意的なもので、自分で決めているだけのものです。それは大抵の場合他者から見た私とは随分違っているものです。私の思い込みは、私だけに通じるもので、他人はそこにはまるっきり関し良していないものなのです。私というのは半ば幻想のようなものに過ぎないのかもしれません。自分探しが一時はやりましたが、そんな中で自分を見つけた人は何人いたのでしょうか。そしてその自分は今でもやはり自分なのでしようか。

前回は思考のことに触れました。そこで思考とは単なる知的な働きではないことを強調しました。思考というと堅苦しいですが、思う、考えるも同じです。知・情・意が総合的に関わっているものとして捉えました。心の中は相当混沌としていると思います。記憶というのも過去の済んでしまった固定化した、変えられない事実をそのまま保存しているのではなく、心の中で主観的に都合のいいように変えられているのです。記憶というのは極めて流動的なものでもあるのです。

思考というのは集められた情報を整理してその上で一つの決断をするようなものです。情報が集まれば思考していることになるのかというと、それではバラバラな知識の寄せ集めに過ぎないのです。樽に例を取ると、樽はいくつかのパーツが組み立てられているのですが、まとめる箍(たが)で締められて初めて樽という形ができ、バラバラが纏まるのです。同じように思考というのは情報というパーツを集めるようなものなのです。箍の役割を果たしているものが、心なのですが、混沌とした中で特に大きな働きをしているのは意志です。意志はまとめ役で、意志なくしてはパーツがバラバラのままなのです。意志の働きがないところで私たちは思考できないのです。

私たちの生活というのは、一日を普通に生きているだけでも色々なことが絶え間なく起こっています。無数のパーツからなっているのです。そして驚くなかれ、そうした一つ一つはお互いになんの関連もないことがほとんどなのです。それが夜寝ている時に一つにまとめられるとシュタイナーは言います。眠りはそのために必要なものだと言ってもいいほどなのです。睡眠とは、一日の間に起こったバラバラな出来事を一つにまとめるためになくてはならないものなのです。纏まるとは言っても意見や考えとして纏まるということではありません。思考というのはただ物事を整理しているだけでなく、物事を統率しようとしているのです。とは言っても寝て起きて次の朝には昨日が一日としてまとまった物して現れるかというとそんなに簡単なものではないのです。ところが徹夜が二日も続いたらと想定してみてください。頭が朦朧としてしまいますが、そこではバラバラなパーツが眠りによってまとめられていないために起こっているのです。思考するための集中力が欠如してしまいます。この集中力が意志の力です。昼は知的で、夜は意志的なのです。起きているというのは知的な活動で、寝るというのは意志的な活動なのです。

記憶というのは、古きを訪ねて新しきを知る、温故知新そのもののようです。一人の人間の中では記憶ですが、文化的には伝統かもしれません。伝統は古くから伝わるものですが、ただ古いだけでなく時代に適応して生き延びてきたのです。そしてそれを受け継ごうとする次世代に引き継がれるのです。伝統もやはり流動的なもののようです。それわ継続させているのも意志の力です。社会的な意志、民族的な意志はどのように機能しているのかこれから考えてゆきたいと思います。意志というのはとても興味深いものです。

 

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