雑学礼讃
雑学なんでくだらないという人もいるようですが、私は全くの雑学派ですから、話は一所に治ってなくて、油断するととんでもない所にまで飛んでいってしまうこともあります。
そのためか、私の講演を聞いた方の中に、人によっては今まで聞いたシュタイナーの話とは違うと感じている人がいることを耳にしたことがあります。「仲さんは本当にシュタイナーの人なんですか」という具合にです。多分私が講演の中でほとんどシュタイナー用語を使わないためのようです。シュタイナー用語が出てこない所にいつもの講演との違いを感じているのでしょうが、私がしてきたドイツの教育会議での講演やセミナーでは、いつも一般の人に向けての講演、セミナーでしたから、シュタイナー用語はご法度の世界でした。というのは一般の人のほとんどがシュタイナー用語で話されてもちんぷんかんぷんですし、シュタイナーの専門用語になってしまうと、その言葉の意味がわからないことで話につまづいてもらっては困るという方針から、シュタイナー用語で語るのはタブーでした。そのためシュタイナー用語を使わずにシュタイナーを語り続けため、シュタイナーの講演らしくないものになってしまい、それがシュタイナーではないのではないかと受け止められたのかもしれません。加えて私個人としては雑学的なものに大変興味を持っていますから話は予想外の膨らみを持ってしまったのでしょう。
振り返ると若い頃は小耳に挟んたことで気になることがあると、それに関しての本をすぐに読んだものでした。若気の至りなのかアンテナを張り巡らしていたようで、三百六十度から色々な情報が入ってきてはそれをもっと知るために本を読むんだものでした。今日のようにインターネットのない時代ですから、情報源はもっぱら本でした。そのうちになんても手当たり次第読むという癖がついてしまいました。
大海原の中にいるように雑学の中にいるととても楽しいのです。世界というのは広いもので、色々な人がいて、それに伴い色々な考え方があり、さらに色々なことが起っていて、雑学の中にいると世界に向けての視野が広がりますから、いつもワクワクしていました。その一方でしつこい所があり、一つのことに変にこだわってしまうと言う別の性癖もあり、二刀流でやっていました。
高校生の頃は、私より五つ位上の人たちは学生運動にのめり込んでいる人たちが多く、彼らの話を聞いていると視野が狭いのにがっかりした思い出があります。何かというとマルクスの資本論が引っ張り出されて、日本語ではむずしいから英語で読むのがいいとアドヴァイスされたりしたものです。私は雑学派でしたが資本ロイは読みませんでした。世の中には色々な考え方があることを知っていたのですが、その人たちにとっては、私のような雑学的なものに振り回されている輩は皮層的と言われ煩わしく邪魔になると、ことごとく排除されてしまいました。私からするとそれを教条主義というのでしょうが、私向きではないので、お付き合いすることはありませんでした。
シュタイナーを勉強している人たちと一緒にいると、若い頃の学生運動的な、視野の狭さを感じることがあります。極端な言い方をしますが、シュタイナーの本しか読まない人もいるのです。私にとってのシュタイナーは幾多の雑学の中の一つなのですから、シュタイナーを専門的に研究していないのですが、シュタイナーを外から見ていることもあります。ですからシュタイナーの持つ味については、シュタイナーだけを勉強している人たちよりもわかっているかもしれません。感覚的に捉えているからでしょうか、他の考え方との比較も楽しんでいます。しかしシュタイナー用語の世界にいる人たちは、意外とシュタイナーの味わい方を知らないのではないかと雑学の徒を自称する私は考えるのです。
論語読みの論語知らずということはよく言われますが、学生運動が盛んだったときにも、シュタイナーの中で勉強している人たちに接していても、この教訓のことを思い出します。実はそう言いながらも一つのことに集中すると他が見えなくなる傾向を私も持っていますから、よくわかるのです。もちろんそれが落とし穴かもしれないとも薄々感じながらです。
是非皆さんにも雑学というのんびりした世界で遊んでいただきたいと思っています。