外国語のできる人も、翻訳で読むのです

2023年4月20日

外国語かできると聞くと、日本では「すごい」と羨望の眼差しで見られるものですが、できるは言ってもそこには相当の程度差があって、二言三言しゃべれる程度から、バイリンガルまであります。

生まれた時から二つの言葉で生きてきた人は、二つの母国語を持っているといえるので、この人たちに翻訳の仕事を頼んでもやってもらえません。通訳はできても翻訳はできないのだそうです。バイリンガルは意識することなく二つの言葉の間を行き来しているので、翻訳という作業に対しては相当のリスペクトがある様です。通訳は問題ないのにどうしてかと不思議です。

翻訳は、原文を読んで意味内容を理解したからといって、それで完成ではないからです。そこからが翻訳家の腕の見せ所です。美しい文体に収めなければならないのです。こうなると外国語ができることが翻訳家としての条件の一つだとしても、決め手は母国語のセンスということになります。これがないと翻訳としてはつまらないものに終わってしまい、翻訳家としては落第と言えるのです。バイリンガルの盲点です。ですから大きくなってから外国語を学んだ人の方が翻訳家としては条件がいいことになります。

外国語が原文でバリバリ読める人でも、驚くことなかれ、小説はもちろん、すでに翻訳されている専門書なども原文ではなく翻訳で読むことが多いのです。

読むというのは、意味を文体のリズムで追ってゆくことです。外国語だと言葉の意味は掴めても、そこにあるリズムをある程度のテンポて追ってゆくことがなかなかできないものです。例えば辞書を片手に小説を読んでも面白くもなんともないのです。これは簡単に想像できると思います。逆にスラスラ読んでしまうと今度は意味が薄れてしまい、ストーリーが掴めなくなってしまいます。

もう一つ不思議なプロセスがあります。

原文で読んで分かったというものでも、本当に解りたい時には、翻訳するのです。そして他人の翻訳で読んだだけじゃ不十分なのです。これは原文がスラスラ読める様になってもつきまとっている不思議です。自分で翻訳して初めて腑に落ちるのです。

皆さんにぜひ知ってほしいのは、翻訳には終わりがないということです。いつもでもやり直しがきくのです。特にコンピューターで文章を書くようになってからは簡単に消せて、簡単に貼り付けられてなんてヤクザなことが当たり前になってしまったからです。永遠に納得できる翻訳はないのです。自分の文章を書くよりもずっと翻訳の文章を練っている方が重労働です。

 

いまシュタイナーの普遍人間学の翻訳をしています。もう何度かお話ししました。

きっかけは、今までの翻訳がどうも解りにくいから、仲節で訳してほしいと言われたことです。しかし翻訳をして行くうちに、状況に変化が起こりました。

これは他人のためにしているのではなく、自分のためだということです。自分で、ドイツ語で読んで、読み落としていたところを、訳すことで拾い上げている様な感じです。

自分で深く理解するために翻訳しているのだと分かってきました。ですからとても楽しいです。

普遍人間学にますます魅力を感じています。シュタイナー教育に携わっている人だけでなく、多くの人に読んでもらいたい本です。教育本ですが、教育本だけではない、ワクワクする探偵ものみたいです。

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