違いがわかる、その先のわかる

2023年4月19日

分かったという時、何が分かったのかといつも思っています。

「私が分かりたい様に分かった」だけではないかと思うことがよくあります。主観的と言うより、思い込みにすぎないものです。自分中心の延長です。

分かったがもう少し良くなると、他との違いがわかったということです。

車を運転しながら音楽を聴いているときに、聞こえてきている音楽がどの作曲家のものかの当てっこをします。誰かが乗っていればその人とやりますが、一人の時も自分で当てっこをやっりなが運転します。自慢ではないですがよく当たります。ぼんやり聴いているのがいいようで、その方が直感が冴えている様です。

不思議なのはモーツァルトの曲は二小節鳴るとすぐモーツァルトだとわかります。バッハもベートーヴェンも、ハイドンも、シューベルトも、そのほかのたくさんの作曲家も二小節くらいで察しが付きます。なぜでしょうか。モーツァルトの626曲はどれもモーツァルトなのです。彼は色々な音楽を書いています。ピアノ曲、オーケストラ曲、オペラ、宗教音楽等々。そのどれもみんなモーツァルトなのです。まるで金太郎飴の様です。モーツァルトは結局モーツァルトの深いところから生まれたものしか作曲しなかったのです。どの曲を聞いてもモーツァルトとわかるのは、どの曲にもモーツァルトの息がかかっているからということなのでしょう。

モーツァルトはハイドンではなく、ショパンではなくモーツァルトだということが分かったことで、ではモーツァルトが分かったのかというと、そうではない様です。哲学者がいう、モーツァルトの本質ですが、それはいつ分かるのでしょうか。

分かったにはもう一つ深い層がある様です。

しかしそこで分かったことは言葉にできません。無理に言葉にするのは危険です。危険すぎます。言葉にできないことがあるということです。そんな時言葉の限界をつくづくと感じます。言葉では言えない世界がまだまだあるのだということです。

言葉はどちらかというと理屈っボイことのためのものなのかもしれません。しかしその限界に挑むことはあってもいいので、詩人は言葉を越えようとしているのかもしれません。

最後の分かったに戻ると。その分かったは直感的に分かることで、理屈で分かることの彼方にあるようです。直感でしか言えないとすると、音楽の体験などは和歌や俳句で歌うしかないものなのかもしれません。そう見ると音楽評論ってなんなのでしょう。

もしかしたら毎日日記を書くように、毎日寝る前に和歌を読むか、俳句を一つひねるのは、感性を広げ直感を磨くためには最高の訓練になるかもしれません。

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