差別を受けない障がい児がいい。人材から人間へ。

2023年5月2日

障がいを持ったお子さんを前にすると、色々と複雑な感情が動きます。

なんとかそういう子どもさん、親御さんを理解してあげたいと、言葉にすると、かえつて的外れなことを口走ってしまったりします。外部者が障がいのことを語ると、変に情熱がこもってしまい、中心がずれているような話になるものです。最もらしい話なのですが、よく聞いているとつまらない話です。全然悪気がないのに、焦点が合わないのです。

障がいに関係なくいる人は、ただ単純に目を背けたくなるものです。

普通に人と人とが出会うというのとは違い、簡単に乗り越えられない何かがそこにはあります。

障がい児の存在は私たちの社会の試金石のようなものと考えたらどうでしょう。なぜかというと現代社会を成立させている意識の本質的なところのような気がするからです。

 

障がい児を理解したい、しかしうまく理解できない、というもどかしさはどのようにしたら超えられるのでしょうか。この感情は深くつきまといます。

障がい児は医療の課題と見られることが多いですから、大抵は状況にふさわしい病名がついています。そんな中でも、いまだに病名がついていないものも結構あります。そうした場合は、社会的に認知されていないということになるので、親御さんは病名のつかない病気の子どもを持つことでとても苦しみます。病名がないことでいろいろな手当や保護や援助が受けられなかったりするからです。

 

 

障がい児への理解は簡単にいうと生活を共にすることで超えられるものがあると考えています。逆に言えば生活を共にしないで、外から見ているだけだと見えてこないものだということです。生活を共にすると、障がい児が障がい児に見えなくなってしまうものです。ここが大切な出発点です。ここを通過しないと、障がい児を一般論で、病気を持った子どもとして見てしまいます。そして病名とそのための治療方法のところで止まってしまいます。

障がい児と一緒にいると、障がい児の障がい児たる所以が消えてしまうものです。そしてそこには人間付き合いが残るだけなのです。確かに少し違つた人間付き合いです。障害があるので他の人の世話にならなければならないことが多いですが、それだから生きてゆくことに不自由を感じていることは少なく、不便で何かと苦労はありけれど、人生を普通に生きているのです。

障がい児が普通に見えたら良い社会が生まれるのだと思います。障がい児が普通に見えたら社会意識にも変化が生まれたと言うことだからです。

私たちの社会にはエリートに憧れているところがあります。それは優秀で、有能な人材を作る原動力になっているものと考えます。ところが現実には、エリート層の人の中ほど差別意識が強いところもないようです。非常に陰湿な差別意識が巣くっているように思えてならないのです。特に強いのが学歴や能力の劣った人を低く見る傾向がです。人間を人材としてみてしまうとどうしてもそうなってしまうものなのです。と言うことはエリートへの憧れ、ある意味では優秀であることへの憧れが社会にある限り、人間は差別を超えられないということになりそうです。

そこにある課題は人材から人間へという膨大なテーマではないのでしょうか。

 

 

 

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