消えゆく音の行くへ
先日はライアーの余韻のある音について、そして鐘や手で打ち出した銅製のトライアングルには音が消えてゆく様が体験できることに軽く触れてみました。音というのは消えてゆくものですが、音が消えてゆく過程を体験してみることで、最近は音が消えるという体験、実感がなくなっていることに気づきます。最近多くみられる機械音ですが、機械音は固められた音と表現していいと思います。倍音のない音という言い方をする人たちもいます。命の通っていない音ということもできると思います。余韻を持ってゆっくりと消えてゆく音が生きた音だということです。当たり前すぎて考える余地のないほどですが、これが実は音の持っている最大の特徴であると同時に本質なのです。そして音は時間の中を生きているということです。
ピアノという楽器は、音の記号化に最も貢献した楽器と言えるかもしれません。ピアノという仕組みは音を始めから消すことを目指しています。ペダルを踏まない限り音は消されてしまいます。ピアノは鳴った音を演奏者の都合で消すことができるという点から言えば便利な楽器なのです。楽器の女王と言われ音楽の世界に君臨していますが、あまりに便利を追求し合理化に走り過ぎてしまったため、音の本質を見失った様な気がします。シュタイナーが「ピアノという楽器は俗物である」といったのは深い意味があるのでしょうが、この辺りのことも含めて言ってるのかもしれません。
私たちはピアノが楽器の女王として君臨した時代の余韻の中にいると思います。もちろんこれからもピアノ曲は愛され続けるのでしょうが、もしかすると過去の絶対的な位置を維持し続けた姿は、これからは変わってゆくかもしれません。私が若い時には音楽への関心が古典時代からさらに遡っていったのと並行して、クラシックギターが台頭し、大きな反響があってピアノ以外の楽器への関心が広がりました。ピアノ離れの様なことをいう人もいました。ちなみに知り合いに聞いた話ですが、愛知県は当時五十社ほどがギター製作をしていたほど盛況だったそうですが、今は片手で数えられるほどしかないそうです。確かにクラシックギターは少しだけピアノ離れに貢献した様ですが、ピアノの地位を揺るがすほどの力はありませんでした。
ではピアノはこれからも安泰かというとそんなことはなく、ドイツのピアノ生産は崩壊寸前ではないかという声も聞かれます。家庭には一台ピアノがあったというドイツの姿は変わりつつあります。とはいえヘッドホーンで聴ける電気ピアノの普及に支えられ、ピアノの位置は未だ健在のようです。とにかくこれほど便利で合理的な楽器は他にないのですから。
今のところピアノを凌ぐ勢いのある楽器は見つかっていませんがピアノがいつまでも女王に君臨できるかというと、それは疑問です。
最近は音楽の世界と治療の世界がお互いに歩み寄っています。音楽治療というものが広く認められる様になっています。そうした中で旧約聖書にあるダビデの竪琴の話がよく引き合いに出されます。竪琴の弦の音で悪魔祓いをしたと言うのです。そこに焦点を合わせ、音楽は治癒する力を持っていると考えるのです。音楽よりもむしろ音に注目しているのだと思います。つまり音は治癒的に働くこともあるという言い方の方が現実にそぐっていると思います。ですから具体的にいうと「音治療」かもしれません。さらにダビデが奏でた音で悪魔が出ていったことを強調したいと思います。ということは実はダビデに治癒力があったのだということで、彼が弾く弦の音で悪魔が飛び足していったのです。
音に治癒力があるという風に考えると、非常に表面的な感じがしてきます。音を出せば治療になるというわけではないからです。音楽は演奏する人によって全然別のものになることはよく知られています。と同じように音はそれを用いる人によっては治療する力になることもあるということです。もし音に治癒力があるというのなら、誰が弾いてもいいわけですし、音でなくても薬を投与するのと同じになってしまいます。
ライアーは、ライアーのために作られた、いわゆるライアー音楽を積極的に弾く必要はないと考えています。もちろん弾いてもいいのてすが昔から親しまれていた音楽をライアーの持ち味を活かして演奏することで、ライアーの音が十分効果を発揮します。よく知っている曲がライアーで奏でられることで、聞き手の心は共鳴し緩んでゆく様な気がします。この緩んだ状態を作れるのがゆっくりと消えてゆく音ではないのでしょうか。長い余韻のある音を聞いていると時間の中に溶けていってしまう様な感じがします。この溶ける感じを作ることがセラピーにつながるのではないかと思っています。
ライアーをただ弾けばいいというのではないことも言っておく必要があります。ライアーを余韻のない音で弾いている場面に遭遇することがあります。これではライアーがかわいそうだと思ってしまうのです。爪で引っ掻いて弾いているのもみたことがあります。キンキンした耳障りな音ですから心に響くものではありません。言葉にしていうのは誤解も招くので、できるだけ控えたいのですが、弦が歌うように弾けばいいのではないかと思っています。やはり音楽は歌うという原点に戻ってしまう様です。そして歌を支えるのが声ですから、ライアーの音が声の様になればいいということの様です。