教条主義と絶対音感。いい加減がいい。

2025年1月28日

幼児期の聞く能力の成長の様子をみていると、興味深いことが見えてきます。

小さい時には音を絶対音感で聞いているということです。音程で聞いているのです。Hzです。成長するに従って音をただHzで捉えるのではなく、音色、声色、と言ったもので捉えるようになります。

絶対音感が特別な者だと考える向きもあるようですが、確かに絶対音感がない者からすると羨ましい鍵なのでしょうが、見方を変えるとそれは不自由であるということにもなるのです。

絶対音感は成長と共に消えてゆきます。とすると、今まで父親や母親を音程で捉えていたのに、それができなくなってしまうということになり、親を間違えるようなことになってしまうのでしょうか。そんなことはありません。聞く能力がただHzに頼るものから、それに伴う音色や、声の調子、さらに言葉遣いによって識別できるようになりますから、父親母親も声色、言葉遣いなどによって間違うことなくわかるのです。聞く能力が、多才、多彩になるのです。

 

絶対音感とよく似ているのが教条主義者の人たちです。宗教的、思想的に行動する人たちによく見かけます。グルの言っていることを絶対的に信じてしまう人たちです。それ以外は間違いですから、受け入れがたく、拒否してしまいます。幼児が絶対音感を頼りにHzだけで聞こえているものを識別していたようにです。幼児はだんだん絶対音感を失って行きますから、音をいろいろな角度から捉えられるようになります。素手言いましたが音色、声色などです。最後は言葉遣いで親がわかるようになります。音だけだった世界から言葉の世界に移ってゆくのです。

教条主義的でなくいろいろな考え方を受け入れられるようになることが、ある意味では成長ということにつながると思います。教条主義からすると、曖昧ないい加減なものに映るのでしょうが、ものごとは相対的なものというのが私たちの社会の現実です。教条主義や絶対音感の世界にいる限りコミュニケーションが取れない人間ということになってしまいかねません。

いい加減がいいのです。

コメントをどうぞ