物事を芸術的に理解するとは
結婚生活が六十年になるご夫婦とお話しをした時に「もうすっかり相手さんのことは理解していらっしゃるのでしょうか」と聞いたのですが、「いやいや結婚した当時と同じくらいしか分かってはいないですよ」と笑い飛ばされてしまいました。「近くにいてくれる人のことは何年一緒にいてもわからないものなのでしょうね」ということでした。
その時考えていたのは、そもそも「分かる」とか「分かろう」という前提が間違っているのかもしれないということでした。六十年一緒に生きてきたというのは、実はよく分かっているということの証しと考えていいものではないのかという気がしてきたのです。
「分かろう」などと力まないで、やんわりと感じてイメージされているもので十分なのかもしれません。ということは私の質問も「お互いにどのようにイメージされていますか」というのが良かったのかも知れません。
音楽を聞いていいつも不思議に思っているのは、今聞いているその音楽を理解しているのだろうかということです。好きということで聞くのですが、理解したいから聞くということはありません。音楽と理解とはどうも反りが合わないようです。もしかするとそこが私が音楽に惹かれる所なのかも知れません。
演奏会やある人の演奏をとやかく解説する人がいます。職業的な解説者、評論家と言われている人たちですが、私は時々ですが新聞などで読むことがありますが、大抵は読まなくてもいいような内容ばかりです。良かった悪かったなどと批評してなんになるのでしょう。それで音楽の進歩に寄与できるものなのでしょうか。私の知る音楽家たちは新聞の批評など一切読まないと口を揃えて言っています。
音楽を聴いているときによく風景が浮かんできます。これはイメージです。イメージ的で感じているのです。しかしそのイメージを言葉にしようとした瞬間にイメージは壊れてしまいます。でもイメージは放っておけばそのままいつまでも残っています。
今までは分かるというのは知的な作業の結果でした。そこにはある基準があり、それに沿って説明が捕捉されていって分かったということになったのです。しかしそれには基準となる物差しが必要とされていました。その時の分かるには前提があったわけで、パターン化されてしまうという欠点を伴っていました。このパターン化がこれからの分かるではかえって邪魔になると考えるのです。
では何に基づいて分かるがなされるのかということですが、ここに芸術的な理解というものが登場すると思っています。芸術というのは主観的な世界であるので、芸術作品を鑑賞する一人一人が別の理解をしていても一向に構わないものです。かえって一つの基準で判断されてしまうと、独裁的な全体主義の元での芸術作品のような極めて硬直した、一辺倒なものになってしまいます。それでは芸術とは言えないのです。プロパガンダです。
芸術を支えている美意識、美的感覚はそもそもは主観的なものなのですが、驚くなかれ時には客観でもあるのです。ただ客観とは言っても強制されるものではなく、混沌とも取られがちですが、個々の感性で測られるものです。洗練された美的感覚というのは出鱈目な主観の集まりとは違います。美的感覚の根底には見えない客観性が生きています。芸術的な感性が今まで理解に繋がるものとは考えられずにいたのは、その見えていなかった客観性が原因です。
帰って学問的な科学的客観というものは一見絶対的なもののように見えますが、案外時代のか流れの中で誤りが指摘され消えていったりしているのです。百年前の栄養学ではない日二百グラムの肉を食べタンパク質を取らなければいけないと言っていました。今そんなことをいう人はいません。客観に見える主観的なものなのかも知れません。
主観に貫かれているだけの作品にはナルシストの後味がありますが、隠れた客観がそこに流れていると世界への畏敬の念が感じられます。芸術というのは主観的客観、畏敬の念によってイキイキとしたものになってゆくのです。






