唯名論と実在論、建前と本音
耳慣れないことですが、唯名論と実在論という哲学的な論争がヨーロッパの中世で行われていました。哲学の分野の研究対象というだけでなく、現代社会との酷似性があるように思うので取り上げたいと思います。今回は珍しく少し厳しいことを書くことになるかもしれません。
人間ということについていう時、人間というものがその様に命名されているだけなのだというふうに考えるの唯名論一派の人たちです。一方名前が付けられているだけでなく、それ以前に人間の実態が現実を超えた世界に存在しているとするのか実在論となります。古代ギリシャの形而上学、哲学者プラトンの考えていたイデアの世界です。またその弟子のアリストテレスも、物の本質は地上に存在する以前に原形があったとする形而上学を主張しています。時代を私たちの方に引き寄せますと、ドイツの文豪ゲーテが彼の独特な自然科学的観察で、植物の世界に対して原植物と言っているのも実在論的な捉え方です。そのゲーテの自然観を引き継ぐシュタイナーもその系列と見ていいと思います。一方、現代の主流となっている自然科学的な姿勢、現象学や統計学のように、地上で姿を持った物だけを手がかりに物事を説明しようとするのは唯名論の後継者と言ってもいいのです。現代主流の唯物論的思考はかつての唯名論者そのものです。
唯物的思考、証明的自然科学とオカルト、神秘主義、エソテリックな捉え方が現代でも二分していますが、西洋哲学の歴史の中でもこの二つの対立がいつもあり、その対立の中で世界が論じられていたのは興味深いことです。おそらくこの先もこの二つの対立は引き継がれて行くに違いないのでしょう。
今回取り上げた理由は、今日の世界全体が唯名論的に傾き過ぎているという懸念からです。哲学的な言い方を使うと肩が凝りますが、日本的に「建前と本音」という言い方にしたらわかりやすいのではないかと思います。建前だけが権利を盾に横柄な態度で社会を闊歩しているのです。様々な組織がそうした名目のものに造られています。組織の名称だけみるとまともしやかで、他人が横から口を挟むことができないほど立派なのですが、そうした組織が実際にやっていることというのは名前とは裏腹に酷いものだったりすることが多いのです。名前が立派に聞こえるものほど、その内容の低劣さは増してゆくようです。それらが政治的権力と結びつくのですから、実態はさらに複雑で悪質な物に変わってゆき、まるで社会の癌と言えるものになります。建前社会の弊害は今至る所に見られます。現代社会は唯名論の末裔、とか唯物論の支配する社会という範囲を遥かに超えて、政治的には利権と結びついて外目に立派なことをいうプロパガンダでしかない、空虚な実態のない社会に変わろうとしているように見えるのです。誠実な政治家もいらっしゃいますが、その人たちはその実態を明らかにしようとしているのですが、常に猛烈な利権擁護の反対勢力によって潰されてしまうのです。
なんという社会が出来上がってしまったのでしょうか。本音で語れるような、本音で社会が動く様にするためにはどうしたらいいのでしょうか。教育を変えることが大切だと考えている方もいらっしゃいます。確かに教育もその一つとして大切な働きをするものです。しかし現代の教育は大きな組織になり過ぎています。
難しいことですが、個人個人の意識の持ち方が変わることなく変化は期待できないと思います。意識の変革が大きな力になるものだと思います。しかし入手できる情報も見えない力でコントロールされているわけですから、正しく現実を捉えることすら難しいのです。個人の意識のありようが今ほど価値あるものに見えている時代は無かったのではないのでしょうか。究極は意識なのです。意識の持ち方にかかっているのです。意識でしか根本を動かせないのです。意識は曖昧なものに見られてしまいますが、単に考えた末の成果ではなく、まだ未知の勇気の原動力となる現実を変えられる魔法の力だと思っています。






