ツバメの旅立ち

2012年9月7日

晩夏の風物詩の一つにツバメの旅立ちがあります。

今日は十羽程のツバメがわが家の庭の上を飛び回っていました。ツバメは真っ青な空の中を忙しそうでした。

 

あまりの低空飛行に驚かされました。しかもお互いに声を掛け合いながら飛んでいるのです。ツバメの声をこんなにはっきり聞いたことはありませんでした。すぐ目の前にまで来ては去って行くので、お互いにかけあっている声がよく聞こえます。さながらスポーツ選手たちが試合中に声を掛け合っているようでした。

空には飛行機雲が三つと薄い絹の紗の様な雲がうっすらと掛っているだけでした。

 

どこに飛んで行くのでしょう。

南の方ということはわかっていますが、イタリアでしょうか、北アフリカでしょうか。

千キロ以上の距離を飛びます。季節風を利用して飛ぶとはいえ、想像しただけで気の遠くなる様な距離です。ツバメは自然の真っ只中を生きているのです。

 

彼らと話しができたらと思います。

忙しそうに飛んでいるツバメたちからは、そんな暇はないと言われそうですが、二言三言ならと勝手に思って見ていました。彼らに向かって思いを飛ばしてみましたが、何も返って来ませんでした。ただ気のせいか、そのたびに私の近くまで飛んできている様で、とりあえずは満足でした。

 

自然と話す人のことを時々読みます。木と話す人、飼育している動物と話す人、いるかと話す人のことを読むたびに、憧れの様な感情が沸き起こって来ます。きっと私も話したいのです。だからちょっと嫉妬の様なものが顔をのぞかせるのでしよう。普段は意識していないことで、お隣の犬を見ても話しをしたいと思うことはないのですが、今日のツバメの様に自然の真っ只中にいる存在とは交信したい気持ちがあるのでしよう。

 

私たち自身もそもそもは自然だと考えたらどうなるのでしょう。人工化された自然は私たちにも当てはまります。私はここで自然治癒力のことを考えています。

自然は外から見ると混乱して、でたらめの様に見えますが、それで調和が保たれているという風にも言えます。人間がまだ知らない自然の法則があるのです。

 

生きているという営みは自然そのものです。人間はそこに何時からかかわかないのですが随分手を加えた様です。手を加えた結果人間に備わっていた自然の力が衰えてしまいました。人間はその自然の力の中でいろいろなものを感じることができたはずです。外の天気のことともそうです。気圧の動きは体で感じます。明日が天気かどうかは体に聞いていたはずです。

 

体の具合ももっと正確に把握していたと思います。そしてそれにどの様に対したらいいのか具体的に解っていたのです。人間はそうした体内の自然からの警告を聞いていたのでしょう。病気になりそうだと解ったのです。そしてそれになにが必要かもです。

 

人間が自分の考えで体をコントロールしようとしたところから、体は自然離れを始めました。そして自然を凌駕したという驕りから体が弱ってしまい、病気が居場所を見つけてしまいました。現代人と病気との関係は、現代人が自分の考えを最高のものとしたところから崩れ始めています。今は病気が勝っています。

 

いま取り返したいのは体と話すという術です。すぐに習得できるものではないと思います。昔の人たちが持っていたものです。だからと言ってそれが古いものというのは一面的な考えです。古い時代には別の力が生きていました。その力が無くなった今、それをもう一度考えることで、失われた力を呼び戻すことができるのです。新しく生まれ変わった力が体に戻って来ます。

 

お金も財布が空っぽになって初めて大切さに気が付きます。お金がザクザクある時、銀行に一杯貯金があって好き放題に使えている時には、お金の価値はわからないものです。

人間の中にある自然の力も一度は無くなってみて初めてその大切さ、ありがたさが解るのでしよう。

 

今、むきになって自然治癒力と言ってもそれは却って弊害があります。現代人の習慣になっているものをすぐに取り外すと、そこから却って調和が崩れてしまいます。

現代人が言う自然治癒力、それも頭で考えて整理しただけの自然治癒力だからです。

自然治癒力はもっと深いところにあります。今すぐそこに辿り着くことはできないのです。今まであまりにその力を押し込め過ぎていました。

 

どこから始めたらいいのでしょうか。

先ずは、自然治癒力の様なものが人間には備わっているのだと思うことです。

それは私たちの想像を超えた力ですから、私たちの意識のコントロールではかなわないものです。

そうしているうちに自然治癒力の様なものを感じることがあると思います。そうなったらしめたものです。

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