トルコ人、ファジル・サイのピアノ演奏

2022年12月7日

トルコのピアニスト、ファジル・サイのコンサートにゆきました。演目はバッハのゴールドベルク変奏曲でした。

前回彼の演奏を聞いたのがいつだったか思い出せないのですが、少なくとも十年以上前のことです。その時は燕尾服で登場し、正統派の演奏する音楽会でした。ところが今回は全てに渡って前回とは違っていました。まず出立が燕尾服ではなくラフな服装で、元気な青年のように舞台の上を足速に歩きピアノの前で聴衆に挨拶し椅子に座りすぐに演奏が始まりました。最初の音を聞きそびれそうになるくらい迅速な動きでした。

演奏スタイルはジャズピアニストを彷彿させます。何度も体を聴衆の方に向け、足の踵でタクトをとり、体を音楽に合わせるように動かし、手と腕は色々なジェスチャーを交え、恍惚と演奏していました。

会場には普段とは違ってトルコの人、トルコ系の人がずいぶんと来ていらっしゃっていて、彼の演奏を全身で堪能している様でしたが、ピアニストが居心地良さそうにしている音楽空間に入り込めず、しかもあまりに動きが激しく、作為的で音楽を邪魔していると感じている人も見受けられ、その人たちはアンコールを待たずに席を立ち会場を後にしていました。

 

彼はここ数年、今までの正統派のクラシックのピアニストという枠を外して演奏活動をしているようで自作のトルコの民族音楽の要素をふんだんに取り入れた作品も主要演目になっている様でした。今回のアンコールも異国情緒たっぷりのもので、中央アジアの弦楽器、あるいはインドのチタールとピアノが混ざった、ピアノの打楽器性が強調されたものでした。演奏が終わるとトルコの聴衆たちからの熱狂的な拍手とブラボーの叫び声で会場が渦を巻いていました。クラシック音楽のコンサートでは珍しい光景です。指笛が至る所から鳴り響き、最後はスタンディングオーベーションでお開きになりました。

 

私としては演奏に満足していたわけではありませんが、いろいろなこと考える機会を頂いて、その方でとても楽しめた音楽会でした。

まず頭に浮かんだのはパブロ・カザルスがバッハの無伴奏チェロ組曲を引っ提げてヨーロッパで演奏した時のことです。カザルスはスペイン人です。日本からするとスペインも立派なヨーロッパですが、ピレネーを超えるとそこはヨーロッパ砂漠と言われ、文化的には半分アラビアからの影響下にある特殊なヨーロッパなのです。ですからカザルスの演奏するバッハに対しては「あれはバッハではない」と手厳しい批判の声があがったものでした。

トルコにしろスペインにしろヨーロッパには属さない文化なのです。スペインのフラメンコはヨーロッパというより遥かにアラビアに使いものです。

ではヨーロッパとはなんなのでしょうか。ヨーロッパの土壌とは。

この文章の中でヨーロッパという時は単に地理的に整理されただけではなく、文化を築き上げた場所としてのヨーロッパのことが言われています。

私はヨーロッパにいるのですが、実際にはドイツとスイスくらいしか住んだことがなく深くは知らないので、中央ヨーロッパ、とりわけドイツに限ってしかお話できません。

さてこのドイツですが理性をこよなく尊重します。ここでいう理性とは他でもない理屈です。もちろん屁理屈も含まれています。理屈の辻褄が合うことが何よりも大事です。ですから喧嘩、訴訟を例に取ると、喧嘩は弁護士を通してするものです。一家には必ずお抱え弁護士がいるものです。そうしないと他人と喧嘩ができないのです。大家さんと棚ごの間も手紙でやりとりしますし、その間には必ず弁護士がいます。これを理性と呼んでいいのかはわかりませんが、ドイ人は理性的に物事を処理していると考えています。

喧嘩がとても冷ややかです。熱血漢同士の殴り合いなんて知能の低い人間がやることと思っているに違いありません。感情に訴えるんなて野蛮なことなんです。大切なのは理性であり、客観であり、理詰めに解決することなのです。それが解決かどうかは疑問の余地がありますが、法律に従って解決したということが大事なのです。

この姿勢は、論議している時ばかりでなく音楽を聞く時にもたっぷり生きています。情緒的、主観的、感情を移入しすぎたりするも演奏は野蛮な演奏なのです。理性で処理されたものでなければと考えているのです。とても冷ややかです。感情を抑えた冷たい喧嘩です。音楽もどちらかというと冷ややかで客観的に解釈されたものが高級だと考えていると思います。カザルスのスペインを感じさせるものはヨーロッパは苦手なのです。今回のトルコのピアニストも、ドイツの伝統を重んじる正統派のクラシックファンには評判が悪かった様です。

 

生と死

2022年12月6日

生と死を二つに分けて考えるのが一般的です。

そうした中で最近は死が殊更にクローズアップされている様な気がしています。

生まれたら死ぬのです。死が拡大化されてホスピスにしろ安楽死にしろ死ぬことが殊更に強調されているので、かえって不自然な感じがしてなりません。死は極く自然な現象です。死なない人がいたらそちらの方がずっと不自然です。死は自然以上でも自然以下でもなく、極々自然なものなのです。私たちが生きているように自然なことなのです。

死をクローズアップするのは死後の世界が未解決なこともあります。死んだらどうなるのか、死後の世界はあるのだろうか、あるとしたらどんな世界なのだろうか。こうして死後の世界に伴う不安の材料を人々に押し付け、さらに誇大化し、そこから死の意味を捉えようとしているわけですが、そんなことをしても死の意味は見えてきません。逆に益々死から遠ざかっています。

生と死は一つのものです。ここが大事なところです。表裏一体という様なものではなく、とにかく一つなのです。生きているとは死んでいることであり、死んでいるというのは生きていることなのです。

私は三十五の時に余命宣告を受けて、初めて死と向き合いました。それまでにも何度か死に掛けてたのですが、そこから死を意識することはありませんでした。若すぎたからです。三十五という年齢は死を考え始めるのにとてもいい歳です。とにかく私はそこから死と共に生きていますからいつでも死ねるのです。死ぬ覚悟ができているというのとも違います。覚悟なんか必要ありません。なぜかというと、死は向こうからやってくるからです。生きているというのも同じです。

なんと言っていいのかわからないのですが、とにかく死ぬという手応えを常日頃から感じて生きています。死んだらどうなるなんて考えていません。私には死は今生きていることとおんなじだからです。今生きているように死ぬだけです。多分死んでも生きていると思います。

 

 

理系・文系で遊んでみると

2022年12月1日

 

 

 

 

システム化はまるで化物、妖怪のように私たちの生活の中に入り込み、見方によれば蝕んでいます。

社会がシステム化するというのは社会が合理的になり、ついには管理社会になるということに等しい様な気がするのですが、システム化ということで考えを推し進めてゆくと、人間生活は将来的にどこにたどり着くのでしょうか。

誰かが誰かをシステム的に管理する、つまり誰かにとって都合のいいものと言えそうです。これが、システムを誰が考え出したのかの答えの様な気がします。ということはこのシステムには初めっから限界があるということなのでしょうか。

地球上でシステム化などいうことを考えているのはおそらく人間だけでしょう。アリやミツバチの社会もシステム化していると見れば、確かに人間以外にもありそうですが、意識のレベルが少し違う様な気がします。人間のシステムには欲が絡んでいる様です。

社会をシステム化しようとした動機は、社会を資本主義、社会主義と見るのとは別の問題です。というか、どちらにも共通しているものなので、もっと根っこが深いということです。

理系文系で言えばシステムという考え方は理系的産物に違いありません。文系は割り切れないことが大好きですからシステムなんかを好まないからです。

 

 

システム化が進むと社会は支配層と非支配層の間に一層格差のあるものになってゆくのでしょうか。システム化した社会は、みんなが平等とは言えなくなるのでしょうか。この二つは相矛盾するものなのでしょうか。つまり、社会をシステム化し機能的に合理化して誰が得をするのかと言えば、ただ一つ、支配階級だからです。つまり社会を支配しようとしている人たちです。戦争の原因はシステムにあるということでしょうか。

ほとんどの人にとって社会がシステム化するなんてどうでもいいことなのです。それどころか不要の長物です。人間というのはそもそも文系ですから。

コンピュータはシステム化の片棒を担いだ立役者です。社会を計算通りに収める、つまるところがシステム化しようとする歴史を見ればそこにいつかコンピューター(優れた計算機)が誕生するのは目に見えています。

 

日本は世界がどんどんシステム化してゆく中で、マイナンバーのことで擦った揉んだしています。番号化されることで困る人があちらこちらにいるからなのでしょうか。

世界が理系社会になりつつある中で文明の進んだ国の中で日本だけが文系社会を維持しようとしている、維持せざるを得ない特殊な社会に私の目には映るのです。

 

隠れたところにある潜在的な動きをみると、理系は文系に憧れ、文系は理系に憧れているということです。

未来が楽しみです。