神様

2021年1月26日

私は神様を信じている人間です。神様はいるのかいないのか、神様の存在を疑ったことはありません。こうかくと熱狂的に髪を信じているかのように聞こえますが、そうではありません。

例えば神は全能だといったことを言い出されると、そんな神はいないと切り捨てます。そしてそんなのは神ではないといいます。私にとっての神様は能力のレベルで語られるものではないからです。神様は無能のように見えることがあります。いや実際全能を言う人からすれば結構無能です。

困った時の神頼み。これも神様とは別のものです。

神様お救いくださいと思うと、神様を一身にしんずれば、神様から返事があるかもしれません。

 

残虐な戦争が人類の歴史には絶えません。なぜ神様はそれを止めないのか。神様が戦争を始めたのであれば止めに来ると思いますが、戦争は神様の仕事ではないので神様に責任を押し付けても糠に釘です。

神様を名乗って大量殺戮が何度もありました。それは宗教の仕業で、それも神様の仕業ではありません。

神様は善でも悪でもないものですから、善の味方をすることも悪の味方をすることもありません。中庸、中道と言えばそう言えるのかもしれません。

神様は負けるが勝ちとよく言います。勝ちたくてしようがいない、あるいは勝ちを誇るのは神様ではない存在です。

神様は人間が作ったと言う考えもあります。自分に都合の良い手前神は至る所にいると思います。それらは神様とは関係ない、自己正当化の変身ですからエゴの産物だと言うことです。

幸せになる人も不幸のどん底にいる人も神様は同じように愛していると思います。

神様に何かを期待していると神様は逃げてしまいます。では神様とどう付き合ったら良いのでしょうか。

神様って、私たちが自分と付き合うのが難しいのと同じくらい、付き合いにくいようです。

名前を覚えることの不思議。孫で気づく不思議。

2021年1月24日

私には2歳9ヶ月を筆頭に三人の孫がいます。いま三人がそれそれぞれに言葉の習得に懸命です。言葉とは言っても最初は「ものの名前」を覚えることです。

覚える以前に、「ものには名前がある」ということに気づかされていると思います。気づきは出会いでもあるようです。ただの出会と言うよりも、それは喜びだということです。

それまでも同じものがそばにあって、それと遊んだりしていたのですが、ある日を境にそれを名前で呼ぶようになります。これだけを外から描写すれば、普通の成長の記録ですが、私にはそれが喜びだということが特に印象的なので、そこに焦点を当てたいと思います。人間のそもそもの心の体験は喜びだったという事実が嬉しいのです。つまり「はじめに喜びがあった」だったのです。

「はじめに言葉ありき」なんていう言い方は、神学者や哲学者が好んで言う、とても抽象的な言い方で、そこには人間存在へ愛というより、人間が生きる機能社会の様子が浮き彫りになってきます。人間の世の中との出会いが喜びからだったというのは、生きる上ですべての人にとって、例え無意識にであっても大きな支えになっているはずです。

 

あるものに名前があることに気づかされ、そしてその名前を覚える。そのときの様子を見ていて、名前を覚えるというのは、ものと子どもが名前を通して結ばれたと言えるのではないか、そんな気がしたのです。名前と一緒に、そのものが自然界で存在している現実を自分の中に取り込んだのではないか、そんな気がしたのです。これを世の中との初めての出会いと言わずになんと言ったらいいのでしょう。ものには名前があるなんて成人してしまえば当たり前すぎて何も感じなくなってしまいますが、子どもは違います。子どもがそのプロセスを生きているのをみて、このなんでもないように見えることが実は劇的なことだと知らされたのです。ものとの出会いは驚きですが、そこに名前がついていて一緒に入ってくると、そのものとの関係がはっきり成立するのです。結ばれたのです。結ばれたことが喜びだったのです。

一度覚えたら、それは何度でも使えるようになります。それを私たちは「覚える、覚えた」と言っているわけですが、実は劇的なことがそこで起こっていたのです。

子どもは、ものの名前を自分の中に取り入れるとすぐに発音します。体はその音を発音するための運動を起こしているのです。発生のための呼吸、舌の動き、唇の動きという具合にです。あるいは全身の動きかもしれません。そして周囲の人が発音しているのをそっくり真似して完了です。実に簡単に見えますが、実は子どもは自分という存在をかけて発音にまで持って行っているのです。子どもは柔らかなので、その変化をさりげなくやり遂げてしまいますが、成人した大人には苦痛が伴う大事業のはずです。成長の影にはこうした痛みが隠れているのです。

まずは、子どもが名前を覚えたということは、そのものと特別の次元で一つになったということが言いたかったのです。

 

子どもはその時点ではまだ意味というものとは全く無縁に生きています。意味で生きている大人が子どもの言葉の習得を意味の方から解き明かそうとするのは間違いです。子どもは意味とは生きていないからです。りんご、みかん、お水と言ってもそれがわかっているわけではないということです。ただお水が飲みたいときにコッブにお水が注がれて、「はいお水」とお母さんが言うのを聞いたときに、ほぼ反射的に「これは水というのだ」と反応し、それが何度かくりかえされるうちに周囲が言うように「オミズ」と発音できるようになります。そして何度も繰り返します。ただそれだけのことなのですが、厳密には「子どもと水とが出会い、そして一つになった」という、劇的としか言いようのない仕事が完結したということなのです。

名前を覚えると、「水」と言えるようになると子どもの中には水が次元を変えて存在し始めるのです。イメージとしてです。水はH2Oと表され、流動的なもので、氷点下では氷になり、沸騰すると蒸気になるなどという物質的な意味は知らずに、水と一体化し、それを水という名前で呼ぶことができるのです。水の意味は何も知らなくても「みず」と言え、「みず」をイメージ化しているのです。

 

さてここからは大変な問題です。

子どもの頃から神様、仏様のことを知らないくても神様、仏様という言葉を使っていました。子どもの時に覚えたのです。初めて聞いたのは、どんな状況だったのか覚えていませんが、何度も聞いているうちに覚えたのだと思います。しかしその時何かがわかって覚えたのでしょうか。先ほどの水のところで見たように何も知らなくても水と言えるように、神様、仏様ことなど何も知らなくても神様、仏様と言えたのです。ただ神様、仏様は水と違って見えないものなのに、子どもの私は大人がいると思っていたのでいるということにしていたのでしょう。ということは、覚えたときから、大きくなって神様、仏様ってなんだと思うようになるまで、私は神様、仏様のいることを疑うことなくいたということなのです。神様、仏様と一つにならなかったらこの言葉を覚えることはできなかったはずです。意識することはありませんでしたが、ずっと神様、仏様と一緒に生きてきたのです。とても不思議です。

 

ベートーヴェンからマーラーへ

2021年1月24日

去年はベートーヴェンの生誕250年ということで、たくさんベトーヴェンにまつわる音楽祭が予定されていたにもかかわらずコロナ騒ぎで全て中止となってしまいました。

ベートーヴェンの音楽は、若い頃、ほんの一時期聞いた覚えがあります。七番の交響曲はレコードを持っていたくらいですから聞いたようですが、他には特に感動したものはなく、みんながベートーヴェンを評価し、持ち上げているのを冷ややかに見ていたものです。

ベートーヴェンの音楽は、私にはすでに終わった音楽なのです。過去の方を向いて、過去の思考方法で考えていて、未来性があるかと言えばなく、聞かなくてもいいやと聞かないだけです。特にシラーの詩を使った九番の交響曲には、平和だとか、友愛だとかいう古臭い言葉がついて回っているので、近づくのを避けています。今日では政治的プロパガンダのための言葉なのではないかと思っています。

ベートーヴェンによってヨーロッパ音楽は終止符を打たれたと思っています。ベートーヴェン的なものと言ってもいいかもしれません。とは言え音楽そのものはその後も次へと歩き始めています。そこで一役買っているのがシューベルトでしょう。シューベルトの感性無くしてベートーヴェンで幕を閉じた後、音楽を次に繋げることはできなかったような気がします。そしてそのシューベルトを引き継いだのはグスタフ・マーラーです。マーラー自身はブルックナーからたくさん学んだようなことを言っていますが、作曲の技術的な面ではそういうところも感じますが、音楽としてはブルックナーとマーラーは全く別方向を向いています。ブルックナーはベートーヴェンを穏やかにした優等生なところがあり、未来を向いているというより、紳士的に古き良きヨーロッパの過去を見つめているのではないのでしょうか。マーラーは未来という予測不明なところに身を置いて、そこを交錯する音楽を書き留めていますすら、優等生には成れない複雑な存在だと思います。マーラーはシューベルトの音楽が持つ独特な「無重力的なところ」に憧れていたのではないかと思っています。未来的ビジョンは無重力の中でしか動けないものです。二人の間に作曲技法的には特に似ているというものではないのですが、音楽は同じ方を、つまり未来を向いて、未来につなげています。

ところがマーラーの後が続かないのです。クラシック音楽はウィーンで、マーラーで終わってしまったのかもしれないなどと言えば必ず反論があるはずです。現代音楽と呼ばれるものがあるからです。しかし現代音楽は響きの寄せ集めのようなもので、それらを聞いても私は音楽体験を得ないのです。響きによるコラージュ、響きによる絵画と言ったらいいように思っています。意外性という楽しみ方をすればいいものでしょう。現代音楽とは別に映画音楽が今日の音楽を賑わせています。映画と音楽が共同作業をすることで、音楽はかろうじて生き延びたのかもしれません。つまり映画音楽という新しいジャンルが生まれ、現代の音楽家たちは映画との共同作業に新しい道を見出したと言えるのかもしれません。

音楽が映像のために、映像を盛り立てるために作られるというのは、ストーリーの伴奏と見ていいのでしょうか。筋書きの状況を音楽で伴奏していると言えるのでしょうか。シューベルトの歌曲の伴奏を聴いていると、伴奏そのものが音楽として独立しているものだという印象を持ちますが、映画音楽は別物のようです。映画音楽だけのコンサートで音楽を聴いていても、音楽的には満たされないものです。映画で見たシーンを思い出す楽しみはあるのかもしれませんが。

現代は案外「音楽体験が得られるにくい時代」と言えるのかもしれません。周囲を見渡せば音楽に溢れているように見えますが、実はソッポを向かれているのかもしれません。それらの音楽は何かのために使われている音楽のような気がしてならないのです。