2021年1月29日
モーツァルトの伝記をいくつか読んでいたとき、それが何冊目の時だったかは忘れましたが、前に読んだモーツァルトのイメージと重ならないものがあることに気がつき、イライラしていたのを思い出します。一応方針としてはできるだけ個々の箇所に拘らないように読むようにしていたと思いますが、時々どうしても腑に落ちない箇所があったりしたものです。
一冊読み終わる時が近づいてくるのは楽しい一時だったことも思い出しました。不謹慎な言い方ですが、モーツァルトが死んじゃうからです。死は一つの人生を完結させるからでしょう。モーツァルトの最晩年から死に至るまではどの伝記作家もモチーフ的には大抵同じで、そこには貧困、謎の男に依頼されたレクイエムの作曲、遺骨のないお墓という事事が書かれています。ベートーヴェンが苦悩の音楽家として有名ですが、彼は多くの人に惜しまれて国葬という規模でお葬式が行われ、晴々しく向こうの世界へと旅立った人間です。モーツァルトとは対照的で、モーツァルトは今日の芸術家の生き方に重なるところを多く持っています。
伝記作家にとって、死というのは悲しいものではないのだという発見は不思議な体験でした。その後大人になって映画を見たときは、死に向かう最晩年のモーツァルトに悲痛感があって伝記作家には見られない表現の仕方で戸惑ったのを覚えています。私は個人的には映画化された個人の伝記は苦手です。
一昨日がモーツァルトの誕生日、明後日はシューベルトの誕生日です。どちらも短命です。モーツァルトは35歳、シューベルトは31歳で亡くなっています。
しかし二人の人生は手袋の表と裏ぐらいの違いがあります。モーツァルトは父親に連れられてヨーロッパの主要都市に出向いて、そこで多くの著名人に出会っています。フランスではマリー・アントワネット似合い、ロンドンではバッハの末息子に会ったりして、外を向いた華々しい人生を送りましたが、時代の変わり目を生きたため不幸な晩年となってしまいました。シューベルトはフランス革命の後に生まれ、ナポレオンが戴冠式を終えた後に生まれていて、フランスの支配の元のウィーンで、生涯二度だけウィーン郊外に休暇に行った他は一度もウイーンを出ることのなかった人生でした。しかもシューベルトにはとくべなことが人生の中で起きていないのですから、シューベルトの伝記はとても書きにくいと思います。シューベルトの音楽についての書物はいろいろあり、随分読みましたが、正直にいうと伝記には疎いのです。伝記が少ない、読み応えのあるものが少ないというのは伝記作家にはあまり興味をそそられるものがないからでしょう。
音楽家はその人を知るには音楽を聞くのが一番です。画家はその人を知るには絵を見るのが一番です。作品が生まれる背景はあると思います。しかし作品と人生の背景との因果関係は必ずしも結びつくものではないようです。
作品を聞く耳を育てること、絵を見る眼力を培うことが大事たと思います。それを補う程度、伝記を読めば良いのではなないかと思っています。
2021年1月27日
若頃はモーツァルトの音楽を浴びるほど聞きました。5歳の頃のピアノ曲K1番から最後のレクイエムK626番までほとんど全部を聞きました。そのときにモーツァルトの伝記も併せて読んでいました。モーツァルトの伝記はたくさんあります。一つ読み、しばらくしてもう一つと時間をかけて読み重ねていきました。一人の人間について書かれている伝記です。ところが観点、文章のスタイルが伝記を書いた人によって随分違うのに気がつくと、ますます面白くなって気がついたら本屋さんで買えるものはほとんど読んでいました。作品解釈も千差万別でした。
そういうことでモーツァルトはまずは素晴らしい音楽家なのですが、私にとっては伝記の面白さ、そして伝記を通して作品解説の多様さを学ばさせてもらった人でもあります。
今はもう伝記としてはなにも読みませんが、時々手にする一冊の本があります。カール・バルトのモーツァルトです。これは伝記とは言えない、でも何かというとうまく言えない、けれど素晴らしい小冊子です。
カール・バルトは音楽家ではなく、音楽学者でもなく、プロテスタントの神学者です。とても高名な神学者で、プロテスタントの信者さんならみんな知っているほどの人です。神学の専門書は難しくて素人の私には歯が立たないものですが、彼のモーツァルトは、モーツァルトが彼の心の中でどのように生きているのかが手にとるように伝わってくる文章で、短い小冊子なので、今までにも繰り返し読んだのですが、何度読んでも飽きない不思議な文章です。
彼はプロテスタントの神学者です。ところがモーツァルトはカソリックだったのです。ですから同じキリスト教でも信仰が少し違うのですが、カール・バルトは初っ端から、死んだら一番先に会いたいのはモーツァルトだと書くのです。この一節を読んだだけで、カール・バルトがどのようにモーツァルトを聞いていたのかが手に取るようにわかるのです。
色々な伝記を読んだ後にカール・バルトの本に出会ったのも良かったと思います。一番最初が彼の本だったら、なんていい加減なことを書くんだと腹を立てていたかもしれません。
たくさんモーツァルトの伝記を読んだことはその後の読書生活にも良い影響を与えています。とにかく一人の人について何人もの考えを聞くのです。一つの作品に関しても同じで、こうも聞けるんだ、ああいう風にも聞けるんだと、読むたびに色々な発見があったもので、それが色々な見方をするという訓練になったのでした。
2021年1月27日
ドイツに四十年以上住んで感じるのはこの国は根っから学問が好きな国なんだと言うことです。
もちろん二通りの意味で言っています。一つは情熱的に学問ができると言う意味で、もう一つはなんでも学問的に考えられてしまうと言うことです。
食事をするときにも、栄養学で攻めてきます。健康に良い、有害ではないと言うわけで、味覚は、蓼食う虫も好き好きですから学問の対象外にはずされ無関心と言っても良いくらいなのです。主観的な感想なんかではダメで、数字になるほど具体的でないと説明したことにはならないのです。日本人からは考えられないくらい合理的で、学問的食生活です。
音楽も芸術的と学問的が競り合っています。どちらかといえぱ勿論学問的で、作品の考証などは得意中の得意です。例えば、その音楽が作られた当時の音を再現すると言うことに夢中になります。その挙句音楽の楽しみを忘れてしまうこともあります。以前のブログで書きましたが、バッハ、ヘンデル、モーツァルトやハイドンといったクラシックの作品を、古い楽器で、当時の演奏スタイルで演奏することがここ五十年くらいはやっています。楽器の構え方、使用する弦、弓、弓の持ち方等々当時そのままを再現することに夢中になっています。それが正しい音楽ということにすり替えられてしまうほどです。私にはなんとなく本末転倒しているように見えてならないのです。というのは、音楽は正しいと言うことで評価されるものではなく、心に響くかどうかだと考えるからです。食事が栄養学で説明されてしまうように、音楽も正しく再現することが目的になってしまい、芸術であることを置き去りにしているのかもしれません。
四十年の歳月の中で当初勘違いしていたことがだんだんと明らかになってきました。初めは真実というのは学問が一番近くにあるものかと思っていたのですがそうではないということでした。
さて、今日はこの真実という言葉について考えてみたいと思っています。私はこの言葉に特別な関心があります。と同時にとても敬意を払っています。そんな中で長いこと疑問に思っていることが一つあります。それは真実そのものを考えることはできるのかということです。どういうことかというと、真実と言う時でも、真実そのものが直に言われているのではなく、周りに付き纏っているものからぼんやりと浮き彫りになっているだけのような気がするのです。
真実という言葉は色々に使われます。学問的な真実もあれば、芸術的な真実もあれば、道徳的な真実もあります。すべてが真実に通じているのです。真実という頂上に行く道はその他にいくつもあります。しかし真実というものは独自の世界を持っているのでしょうか。これが真実だというものはあるのかどうかということです。
みんながそう言っているから真実だということはありません。真実は多数決で決められないのです。一人だけがあることを主張して、それ以外はみんな別の意見だとしても、たとえそれが99パーセントだとしても、だからと言ってみんなの意見が真実だということにはならないのです。たった一人が真実を予感していたということだって有り得るのです。
つまり真実は量とは関係のないものだということです。真実というのは非物質的で実に手応えのないものです。触ることができまないので、証明することができません。でも私は真実はあると信じています。そんなものは無いと言われても、あることを証明できなくてもあると信じています。いかなる場合でも有りますと言います。
他の人には無いかもしれないのですが、私にはあるということ、それで十分なのです。先ほども言いましたが、みんなで真実を共有することなんかどうでも良いことなのです。真実はそういう意味で孤独なもので主観的なものです。学問の真実とか、芸術の真実、道徳の真実というように客観的な領域のものであるかのように見えますが、真実は主観からしか生まれないのです。
手応えがないのは外にではなく主観の中だからです。触ることができないのは自分の中にあるからです。説明ができないのも、自分に説明する必要がないからです。
客観というのは物質的で、証明するのに都合の良いものですが、真実の領域に入り込むことはできないものです。私たちはとかく客観的なということ、数字で示されるものを信じ、高く評価しがちですが、そこに真実はないことを知るべきだと思います。真実は私たちの心の中にだけあるものだからです。勿論私たちはお互いの駆け引きを度外視できる仲ならば、真実を共有することができます。真実ってまるで真空状態のようです。