名前を覚えることの不思議。孫で気づく不思議。

2021年1月24日

私には2歳9ヶ月を筆頭に三人の孫がいます。いま三人がそれそれぞれに言葉の習得に懸命です。言葉とは言っても最初は「ものの名前」を覚えることです。

覚える以前に、「ものには名前がある」ということに気づかされていると思います。気づきは出会いでもあるようです。ただの出会と言うよりも、それは喜びだということです。

それまでも同じものがそばにあって、それと遊んだりしていたのですが、ある日を境にそれを名前で呼ぶようになります。これだけを外から描写すれば、普通の成長の記録ですが、私にはそれが喜びだということが特に印象的なので、そこに焦点を当てたいと思います。人間のそもそもの心の体験は喜びだったという事実が嬉しいのです。つまり「はじめに喜びがあった」だったのです。

「はじめに言葉ありき」なんていう言い方は、神学者や哲学者が好んで言う、とても抽象的な言い方で、そこには人間存在へ愛というより、人間が生きる機能社会の様子が浮き彫りになってきます。人間の世の中との出会いが喜びからだったというのは、生きる上ですべての人にとって、例え無意識にであっても大きな支えになっているはずです。

 

あるものに名前があることに気づかされ、そしてその名前を覚える。そのときの様子を見ていて、名前を覚えるというのは、ものと子どもが名前を通して結ばれたと言えるのではないか、そんな気がしたのです。名前と一緒に、そのものが自然界で存在している現実を自分の中に取り込んだのではないか、そんな気がしたのです。これを世の中との初めての出会いと言わずになんと言ったらいいのでしょう。ものには名前があるなんて成人してしまえば当たり前すぎて何も感じなくなってしまいますが、子どもは違います。子どもがそのプロセスを生きているのをみて、このなんでもないように見えることが実は劇的なことだと知らされたのです。ものとの出会いは驚きですが、そこに名前がついていて一緒に入ってくると、そのものとの関係がはっきり成立するのです。結ばれたのです。結ばれたことが喜びだったのです。

一度覚えたら、それは何度でも使えるようになります。それを私たちは「覚える、覚えた」と言っているわけですが、実は劇的なことがそこで起こっていたのです。

子どもは、ものの名前を自分の中に取り入れるとすぐに発音します。体はその音を発音するための運動を起こしているのです。発生のための呼吸、舌の動き、唇の動きという具合にです。あるいは全身の動きかもしれません。そして周囲の人が発音しているのをそっくり真似して完了です。実に簡単に見えますが、実は子どもは自分という存在をかけて発音にまで持って行っているのです。子どもは柔らかなので、その変化をさりげなくやり遂げてしまいますが、成人した大人には苦痛が伴う大事業のはずです。成長の影にはこうした痛みが隠れているのです。

まずは、子どもが名前を覚えたということは、そのものと特別の次元で一つになったということが言いたかったのです。

 

子どもはその時点ではまだ意味というものとは全く無縁に生きています。意味で生きている大人が子どもの言葉の習得を意味の方から解き明かそうとするのは間違いです。子どもは意味とは生きていないからです。りんご、みかん、お水と言ってもそれがわかっているわけではないということです。ただお水が飲みたいときにコッブにお水が注がれて、「はいお水」とお母さんが言うのを聞いたときに、ほぼ反射的に「これは水というのだ」と反応し、それが何度かくりかえされるうちに周囲が言うように「オミズ」と発音できるようになります。そして何度も繰り返します。ただそれだけのことなのですが、厳密には「子どもと水とが出会い、そして一つになった」という、劇的としか言いようのない仕事が完結したということなのです。

名前を覚えると、「水」と言えるようになると子どもの中には水が次元を変えて存在し始めるのです。イメージとしてです。水はH2Oと表され、流動的なもので、氷点下では氷になり、沸騰すると蒸気になるなどという物質的な意味は知らずに、水と一体化し、それを水という名前で呼ぶことができるのです。水の意味は何も知らなくても「みず」と言え、「みず」をイメージ化しているのです。

 

さてここからは大変な問題です。

子どもの頃から神様、仏様のことを知らないくても神様、仏様という言葉を使っていました。子どもの時に覚えたのです。初めて聞いたのは、どんな状況だったのか覚えていませんが、何度も聞いているうちに覚えたのだと思います。しかしその時何かがわかって覚えたのでしょうか。先ほどの水のところで見たように何も知らなくても水と言えるように、神様、仏様ことなど何も知らなくても神様、仏様と言えたのです。ただ神様、仏様は水と違って見えないものなのに、子どもの私は大人がいると思っていたのでいるということにしていたのでしょう。ということは、覚えたときから、大きくなって神様、仏様ってなんだと思うようになるまで、私は神様、仏様のいることを疑うことなくいたということなのです。神様、仏様と一つにならなかったらこの言葉を覚えることはできなかったはずです。意識することはありませんでしたが、ずっと神様、仏様と一緒に生きてきたのです。とても不思議です。

 

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