死から見える日常。

2020年6月7日

日常について書いて見たいと思います。

この言葉は知っているつもりでいる割には、改めて言葉にしようとすると言葉にできないのです。

いつも通り、毎日、相変わらずと行った程度の意味ですから、哲学している割には難しいものではないのですが、自分の日常ってなんなのかって考えると、自分というものがよくわからないと同じくらいに、わかっていないことにきがつきます。

普通というのによく似ています。

普通と日常には多くの類似性があります。普通というのは横のつながりの中で出てくるものですが、日常というのは時間の流れの中にあるという違いはあっても、どちらも徹頭徹尾主観の中にあるため、よく似て見えるのです。

 

実は私は二つの日常の姿をイメージしています。今日はそのうちの一つを書きます。

普通とか日常というものに出会すのは、自分を変えたいと思った時です。今までの自分とは違う自分になりたいと思うことは人生の中であるのです。一度の人もいれば何度もそう言う状況を体験した人もいるでしょう。

私たちが自分を変えようとする時、二つのことをしなければなりません。一つは「普通」から抜け出すことです。もう一つは「日常」という流れから抜け出すということです。

普通の反対は、風変わりとか異常ですから、自分を変えようとする時に見えてくるこれからの自分はえらくみすぼらしく見えたりするのです。今まで変人と言って、半ば軽蔑していた部類に自分が入ってしまうのです。案外勇気のいることです。他人の目が気になります。もしそこでいつもの自分が懐かしくなったら、ホームシックのようなものでその人は変わることがないのです。それでも他人からすれば別に変わらなくてもいいわけですから、そのまま普通の生活に戻ったとしても誰もないも言わないのです。そのまま普通の生活を続ければいいのです。普通から抜け出すのは覚悟だと思っています。

さて日常の反対はなんでしょう。非日常と言えば間違いではないのでしょうが単なる言葉遊びの様なもので、当たってもいない無難な答えです。

もう一度言います。日常の反対です。いつもと違うことということですがなんと言ったらいいのでしょう。

修行僧たちは滝に打たれたり、絶食したり、千日回峰行のような荒業を通して、日常を振り切りたかったのだと私は考えています。きっと日常を抜け出すというのがとても難しいことなので、精神主義の中では荒業、荒治療が用意されたのではないのでしょうか。日常の反対語を簡単に見つけ出せないのはそこに理由があったのです。しかし荒業以外に日常を断ち切ることはできないのでしょうか。

私の個人的な経験からですが、再生不良性貧血という病気で、このまま進行すれば余命が限られていると宣告され、自分の前に死という真っ暗な塀が立ち塞がり、これ以上進むことができない自分を見せつけられました。35才の時でした。難病で、大病です。

病気というのは、病むということで、言葉遊びと言われてしまいうかもしれませんが「止む」に通じています。今までの自分の生き方を止めろと言うことです。今までの日常が通用しないところに導かれるのです。今までのようには生きてゆけないのですから変わらざるを得ないのです。かつての日常に戻ってしまえば命がないのです。

 

人間もある意味で脱皮をするのだと思っています。成長とか発展とか言われているものです。人間は本能的にそれを持っているという人もいます。そうかもしれません。しかし本能としてその衝動を持っていたとしても、人間の場合、本能に任せるだけでなく、意識が導かなければなりません。精神的な成長は意識的にしか起こらないのです。意識的というのは苦痛をともなうものです。しかし単に苦痛と言うだけでなく、深いところから見るとそれは喜びなのです。生きている中で一番大きな喜びと言っていいかもしれません。

日常というのは樽のタガのようなものです。タガによって樽板がしっかりとまとめられているのです。つまり日常というのは生きていることそのものなのです。まだ日常の反対語を言っていませんでした。「死して生まれよ」と言う言葉を思いうがべています。日常に気がつく、つまり反対語は何かというと、死です。死そのものと言うより市に向かい合うことです。そして日常から抜け出すというのはそこでみた死から再び生に蘇るということなのです。

 

 

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