倫理、あるいはモラル

2020年5月4日

倫理、モラルという言葉に、今まではずいぶん振り回されてた様な気がします。

簡単にいうと、何か良いこと、善なることをしなければならないという、半ば強迫観念のようなものが付き纏っていて、その辺のありようが性分として苦手だったからです。

ところが、最近になってだんだんその桎梏から解き放されているように感じています。

そのきっかけになったのが、倫理とは何か特別なものではなく、物事を持続させるために必要な力だという理解に達したからだと思っています。

 

ドイツの諺に「嘘は短足」というのがあります。直訳したわけですが、意味を汲んで訳すと、嘘は長くは歩けないとなります。嘘はすぐにバレてしまうので長くは続かないということです。

嘘も方便という言い方もありますが、こちらは大切な処世術です。この意味は嘘をつくことが本意ではなく、嘘を善意に、前に導くために用いているわけで、嘘を肯定しているのではなく、アイロニカルな、あるいはユーモアを含んだ逆説的な表現のはずです。基本的には嘘はよくないと認めた上での含みのある言い回しです。大人の味がします。

 

さて、話を元に戻すと、倫理は長続きさせる力のことだったのです。ということは嘘の反対です。嘘では物事は長続きしないからです。嘘をゴリ押しして、権力を後ろ盾にプロパガンダとして、嘘でもなりふり構わず百回いえば本当に聞こえてくるなどと言う言い方を私は認めません。

一般的には嘘の反対は正直と言うことになっていますが、この形では深いところには達しないと思います。正直とは本当のことを言うわけですが、この本当のことと言うのが難しいことだからです。知らないうちに権力と結びついてしまうと、本当らしく見えるものが後から見れば嘘だったと言うことにもなりかねない、危なっかしいものなのです。これでは、子どものやっている、嘘・本当ごっこのような遊びの延長です。

 

ですからここで、嘘の反対を正直者であれということに結びつけると、私が考えている倫理から遠ざかってしまいます。

では倫理はどこにあるのかと言うと、善悪で片付けられないところにあるのです。善悪の彼岸でもなく、善悪以前でもなく、善でもなく悪でもないところにあるのが倫理です.結果として善という事はあっても、善を目指してしまうと、倫理から外れるのです。もちろん善を装った悪などは言語道断です。

 

物事を続けるために必要なものというと、すぐに制度のようなもので整えることを考えますが、制度と倫理は相当違います。制度化するとそこにはすぐ権力という罠が仕掛けられてしまい、せっかく味のあるものが、人間関係などでヒエラリルキー化してしまい挙げ句の果てに硬直化してつまらないものになってしまうことが多々あります。制度化も必要な要員ですが、それだけではない別のものが必要になってきます。それが働いていないと物事の持続は望めないのです。とは言っても結局は見えない力のようなものですから、それがそこで働いているかどうかということは証明できないのです。という事は今日の思考的習慣からすると、ないものになってしまいます。残念ながらそれが倫理なのです。倫理については、個人の主観に任せられてしまい、何を言ってもいいということにすらなってしまうものなのです。

 

倫理というのは元々存在している力ではないということにも触れたいと思います。本能ではない、つまりどこかにあるものではないということです。唐突ではが、自由によく似ています。選択の自由はわかりやすく、それが自由だと考えてしまいがたちですが、自由というのも、究極的な言い方をすれば、どこにもないものなのです(いつかこのことにも触れたいと思います)。

倫理というのは社会的に、公共の場にあるものではなく、そしてこれは特に大切なことなのですが、いかなる権力のもとにもなく、個人の意識の持ち方次第で作られるものだということです。つまり倫理は意識の産物で、意識が低ければ低い倫理がそこにあり、意識の高い人のもとには高い倫理があるということです。

意識の高さというのは、自意識からどこまで解放されているのかということだと思っています。自意識から解放された意識は、そもそもは祝福されるべきものなのですが、ある意味では危険な状態に陥ることがあります。それは境界が消えて、自分がわからなくなってしまい、意識だけが無限に広がってゆくこともあるからです。

では倫理のための修練はどんなものなのかということですが、自意識をなくすこと、それが一番の近道のような気がします。

 

 

 

 

 

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