恋心のようなもの
一人の人を突然好きになってしまったという経験は多くの方がお持ちだと思います。人に限らずものの時にもよくあることです。無性に気に入ってしまい使用どう外をしてしまうようなことです。
人だとすると、そのお相手さんは探し出して見つけた人ではなく、また人に紹介された人というのでもなく、全く突然に他人が集まる集団の中から、一人だけ浮き上がって目の前に現れて来るのです。向こうからやってきたというのが適切な言い方です。こんなことが起こってしまうのです。
自分で懸命に探してようやく見つけた時でも、もしかすると向こうからやってきていたのかもしれないと私は感じることがあります。
今までにたくさん講演をしました。そんな中で一度もやったことがないのが講演のために原稿に書いておくという準備です。もちろん準備はするのですが、その準備はない日の生活の中にあるので、本で読んだりすることが公園の準備ではないのです。私には変な癖があって、もし講演の準備を文章でまとめていたとすると、講演ではそのことを話さなくなってしまいます。もう準備の段階で終わっているというのか燃焼し尽くしてしまっているので、今更そのことを血用州の皆さんに話す必要なんかないと考えてしまうのです。
講演もその時は話す内容は向こうからやってきます。講演のテーマはあらかじめ出されているものですが、テーマにフォーカした話をしたとすると、ほんのわずの時間で終わってしまいます。自分予め、これとこれを話そうと決めた話です。情報的な話は短く済ませることができます。本からの引用をたくさんして、箇条書き的にまとめたものを読み上げるのならせいぜい5分とかからないかもしれません。
講演というのは、特に私がしたい講演はそうした情報収集のためにするものではなく(そういう講演もありますが)、話を聞く楽しみが中心です。話をするというのは問題の確信に回り回って辿り着くというのが醍醐味なわけで、5分の話などは後に何も残らないものです。インスタントラーメンやカップラーメンに熱いお湯をかけて3分待って夕食を済ませるようなものかもしれません。
話をしているうちに向こうのほうが私の気持ちをだんだんわかってきて、話を作っていってくれます。私としてやる子はなんなのかというと、話の邪魔をしないことです。実は自分で話をしているのですが、自分でもしっかり自分のなすしていることには耳を傾けているのです。私がこうした体験を重ねているときに、音楽の聴き方が変わってきました。演奏している人が楽譜通り弾いているだけか、自分でも自分の弾いている音を聞いているのかのの違いがわかるようになったのです。もちろんどちらも楽譜はしっかり頭に入っているのですが、「私が弾いています」という姿勢から「私通して向こうからくる力に任せ音が流れています」という感じです。向こう任せという言い方は小説家の泉鏡花がよく使っていたものです。あらすじと登場人物が決まったら、あとは向こう任せで書く、と言う風に、小説のできるプロセスを話していました。
私も及ばずながら、講演は向こう任せでやっています。無責任なように受け止める方もいらっしゃるかもしれませんが、私の経験からすると、そのように話した方が深い話ができるものなのです。深いと言うよりもよくまとまった講演になると言うことかもしれません。自分で考えたことをまとめようと話をしていると。話というのは兎角ずれることのあるものですから、どこかで辻褄が合わなくなったりしてしまうものなのです。
向こうがなんなのか、よく考えるのですがね今もってなんだかわかっていません。私の潜在意識のようなものなのかもしれませんし、血用州の中にある雌雄段位式のようなものが私から話を引き出しているのかもしれなと考えるのですが、わかりません。そうした経験が重なると、自分で意識していることが本当にわずかなことだと気付かされます。
とにかく私たちの体というのは私たちが意識しなくても働いている無意識の、潜在意識の塊です。どんなに感謝しても足りないくらいです。講演を良くするためには体づくりはとても大きな準備です。一冊の本を読んで知識を集めるより、心地よい運動で体をほぐしながら体力づくりをする方が、実のある準備と言えます。
体が喋っているので、頭が喋っているのではないというのか、今までの講演を振り返って言えることです。体に任せると、向こうからやってきます。ローマの格言が言うように「健全な精神は健全な肉体にゆどる」そのままです。
講演を自分の健康と置き換えてみると、頭で健康を管理している人のように健康管理はできないのです。そもそも怠け者で飽きっぽい方でから、頭で決めても体が続けてくれないのです。かえって体が欲しているものを体に取り入れてあげいる方が、頭で無理やり整理するより自然ですし、何よりも体と対話している感触があって、かえって体にいいことをしているような気がしています。やはり向こう任せのようです。
頭で考えたことはこっち任せということですから、結局はエゴを大分しているようものなのでしょう。私のエゴの押し付けと言うことです。
自分の体に恋をするのが一番手っ取り早いようです。