遠くへ行ってしまう内田芳夫先生
五月二十日に、鹿児島で三十年もの間お世話になった内田芳夫先生がお亡くなりになりました。心からご冥福をお祈りいたします。享年七十九歳でした。
どんぐり園として幼稚園を始めた三十年前から、今日のどんぐり自然学校に至るまでの間ずっと変わらず理事であられたことでお付き合いを持たせていただきました。どんぐり園は内田ご夫妻が鹿児島の吉野に建てられた家の一階を使わせていただくことで開園できたものでした。ご家族は二階にお住まいにならなられていました。その敷地の中に太い、樹齢を重ねたどんぐりの実の成る椎の木があったことが、「どんぐり」という名前の由来になっています。そこではヤギが飼われ、内田先生は出勤前に必ずヤギのごんちゃんに餌をやっていたので、それを見たどんぐり園の子どもたちは、内田先生はごんちゃんとお父さんとして親しまれていました。
今から二十年前にどんぐり園のために作った圓歌の詩の中ではヤギのことが歌われているのですが、歌を作っているときにはどんぐりの大木のイメージと、吉野から見える桜島の姿と同じくらいヤギの存在を意識していましたから、内田先生はその演歌の中核にいらっしゃったのでした。園歌は今でもさまざまな場面で、その後に付けられた振り付けを交えて歌われつつけています。これからも歌い続けられると思うので、内田先生はその歌が歌われるたびに、ヤギの姿と一緒に歌う子どもたち、先生たち、親御さんたちの心のなかに登場し続けることになるようです。
二十三日が告別式でした。日本時間で11時、ドイツの時間では朝の四時でしたから早起きをしました。その時間に合わせて、気持ちだけでも日本での告別式に参列したかったからです。三十分ほど黙祷してからライアーを弾きました。その時に窓の方を見ると、先ほどまで雲に覆われていた東の空はうっすらと雲がたなびいているだけで、夜明けが近いことを告げる赤みを帯びた色に変わっていて、そこにはなんと上弦の月と明けの明星と言われる金星がほぼ並んで地平線の上に輝いていたのでした。美しい朝の空の中で内田先生は昇天されたのだと感動していました。
内田先生とは一年に一度お目にかかるという間柄でしたが、三十年の間毎年お目にかかって、心を通わせていると、親しい間柄に変わってしまうものです。お目にかかっても長くお話をすることはなく、短い言葉でお互いに再会を喜びを交わすほどなのですが、その短いやり取りの中に幾重にも重なった思いが感じとられるのでした。私の講演の後には必ずお声をかけてくださって、これまた短い感想を述べられるのですが、この短さがたまらなく味わい深く、毎回励まされたものでした。
鹿児島大学で難聴の問題を扱われていた先生でしたので、その関連でも大きな力を発揮され活動されていたため、お別れには沢山の弔問の方がいらっしゃっていたと自然学校の先生から報告をいただきました。
三十年を振り返ると、この間いつも先生の大きな愛によって、どんぐり園も、どんぐり自然学校も包まれ、支えられていたことがくっきりと見えてきます。内田先生の決して表に出てこない謙虚なお力添えは、これからもどんぐりに関わる人々の心の中で静かに、力強く生き続けどんぐり発展を支えてくれることと信じております。
内田芳夫先生のご冥福を心からお祈りいたします
合掌