無味の音楽
ある著名なピアニストが、「お呼ばれした席などで演奏を頼まれた時には必ずモーツァルトの簡単な曲を弾きます」と回顧録のなかで書いています。彼に演奏を依頼する人の多くは聞き応えのある曲を期待されていたようなのですが、彼はあえて初心者でも弾けそうな曲を選んで弾くのだそうです。ギーぜキングと言うそのピアニストの音楽哲学は「簡単な曲ほど実は演奏するが難しい」と言うもので、その考えからきていたようです。
ここで簡単と言うのは音符が少ないと言うことと理解していいと思います。音が少ないとテクニックの見せ場がなく、音だけの勝負ということになります。音楽家の真髄が曝け出されてしまいます。楽器をこなす演奏技術はもちろん大切なのですが、演奏する人の音楽性のほうがもっと大切なのです。簡単な作品の演奏となるとテクニックがものを言わないので舞台の上で「裸にされてしまうようなものだ」とよく聞きます。音とどのくらい深く出会っているかがばれてしまうからなのでしょう。
演奏家が音と出会っているかどうかは、聞いている時にも感じますが、余韻の中での方がかえってこの事実が鮮明なことがあります。次の日朝目覚めた時にまだ昨日聴いた音楽が余韻として残っていたりします。むしろ昨日よりもクッキリとです。技巧的な演奏は聞いたその時は圧倒されたり衝撃を受けたりしますが、その場限りという感じで余韻はないものです。
音楽でいつも問題になるのはこの音楽性です。楽器演奏の際の技術、技巧、歌の発声法などは練習によって磨かれ上達するものですが、音楽性は別物です。音楽のセンスと言い換えてみるとわかりやすいかも知れません。料理のセンスや、服装のセンスや、お花を活ける時の色と形を整えるセンスと同じで、先生から教えられて上達するというものとは違うからです。
センスと言うのは色々な分野にあって言えるものです。どこからくるものかというと人間の質からです。個人的に私の中では品性と重なり合っています。あるいはその人の持つ誠実さ、静けさです。音楽に関する知識ばかりでなく、音楽が好きでたまらない人が、その好きでもって音楽と出会うことです。人好きになればわかりますが、好きというのはとても誠実なものだからです。もちろん畏敬の念とも繋がっています。そのように純粋に相手を崇めながら接する姿勢から、人間としての深みが生まれるのだと思っています。味のある演奏は音楽の中から溢れ出てくるものです。
音との出会いが深まれば深まるほど音から無駄なもの、主張や装飾が削ぎ落とされる感じです。私を支えてくれている老子の言葉に「無味の味」「真理は真水の如し」というのがあります。真水のような無味の音楽というのがあるような気がしています。






