外国語万歳

2013年7月22日

言葉を幾つも話す友人がいます。不自由しないで喋れるのは四カ国語で、大体解るのを入れると七カ国語という人ですが、三つ目の外国語をクリアーした時に、言葉は基本的には良く似ているということを発見したそうです。

今その人は私に日本語を習っていますが、久しぶりに苦労をしているということでした。

でも先生である私の感触から言うと今までお世話したドイツ人の中ではダントツに言葉のセンスのある方で、どんどん日本語と言う特殊な言い回しの世界にななじんで行っています。

 

バベルの塔が崩壊して一つだった言葉がバラバラになってしまったので、母語と外国語ができてしまったわけですが、母語だけだったら気が付かなかったことがあるに違いない、私はそう考えています。

母語と外国語の関係は自分と他人の様なところもありますから、自分の事だけを考えて生きている様な人は、結局は自分のことに気が付いていない人ですから、それと同じで、外国語を通して始めて知らないことが見えて来ることもあるのです。

 

外国語を得意な人と苦手な人がいるので、苦手な人にも読んでもらえる様に頑張りますので付き合ってくだささい。

 

外国語、特に日本語からヨーロッパの言語・言葉を学ぼうとする時には、高い敷居があります。ヨーロッパ語は記号に見えてしまいます。特に習い始めは、言葉と言う感覚より記号的な印象が勝っているものです。

しかし、基本的には外国語はどんな言葉であっても、中国語もハングルも記号に見えると思います。

どの言葉から学んでも外国語はみんな記号的です。

逆の見方をすれば、私たちは自分のことは自分になじんでいることなので、何の抵抗もなく生きていますが、結婚したとして、お相手さんがどんな好きな人でも他人ですから、他人と生活を共にするようになって、他人とは全く別物だと気が付きます。それを受け入れられない人もいて、しきりに相手を教育しようとしますが、成人した人間はそんなに簡単に変えられるわけではないですから、相当強引に相手に働きかけないと成功しません。仮に成功したとして、それはたいていDVと言う、家庭内暴力に近いものがあります。

言葉は記号的なのです。言葉というものは、生まれたばかりの赤ちゃんが喋る言葉以外は、記号的に整理されたものを使っています。

ただそれは母語だけでやっている時には、気が付かないだけです。

自分の常識他人にとって非常識ということをきいて、上手いことを言うものだと感心たことがあります。

それと同じで、母語の常識は、外国語から見たら非常識なんです。

 

言葉が沢山できる人を見るとうらやましいと思いますが、逆の面もあります。

子どもの時から幾つもの言葉を家庭の中に持っていて、複数の母語を持つ人は辛い人生になることもあります。

言葉はできるのに、言葉の習得にエネルギーを使い過ぎて、心そのものが育っていないことがあります。

言葉が心を作ると言っていいのかどうか、そこのところは断言できませんが、言葉がここにとって大きな働きをしていることは、私が買って働いていた施設のお子さん達を見ても感じたことでした。

とても高い知能指数を持つお子さんが心が不安定なために本来の実力を出せないというケースは、今の世の中意外と広がっている現象ではないかと思います。

コメントをどうぞ