愛と愛

2013年7月23日

あなたを愛しています、なんて言われたら、あなたの所有物にはなりたくないです、と言って断るべきです。

愛とはと考えると、無限の多様性の中で迷路に入ってしまいますが、今日はそんなことは覚悟の上で愛のことを書いてみます。

 

もの事はいろいろな観点から見なければならないし、それといろいろと比較してみること、更に反対の事、あるいは対になるものを引き合いに出して対立的に捉えることが必要です。ところが愛をその様に見るといろいろな矛盾があるようです。矛盾と言うより、愛には超越した何かがあり、対立するものを探すのにも一苦労なものです。

 

愛・憎しみと対にされます。love and hate。一般にはこの様な仕組みで言われますが、これはどうも次元が違うことを並べている様で私には納得できないものです。この関係は好き・嫌いの延長に置いているだけでです。愛はもっともっと規模、スケールの大きなもので、生きていること全体を包み込んでいるものだと思うのです。

憎しみの反対は何かと考えると愛とは出てきません。それよりも許し、許すことと言うのが浮かんできます。勿論愛と許しはとても近いところにあるものですし、許しは愛の一つの現れだとは思いますが、愛全体からすればまだ一部の様な気もします。愛は「許す許さない」という次元のもう一つ上にあるからです。

 

愛を所有観念の中に入れてしまうと飛んでもないことになります。ある人を愛しているというのはいろいろな意味合いで扱わないといけないものですが、冒頭の出した様に、あなたと一緒になりたいという所有的なものが愛の中には隠れている様な気がします。それでは愛と言うのは欲の延長にあることになってしまうでしょう。

 

愛には比較するものがない様な気がします。だからと言って孤立しているものではなくて、却って全てを包括しているものです。こんなものは他にないと思います。

愛は与える者も、受け取る者も両方を幸せにするものです。

そして枯れることのない泉の水の様にコンコンと湧いてくるものでもあるので、いくら愛を与えても尽きることがないものです。

しかも愛に打算のかけらが見えたら、愛はすぐに逃げて行ってしまい、欲が見え隠れし始めます。

昨日何人かの友人と愛のことを話していて、いろいろなことが脳裏をよぎったので、まとまらない話しになってしまうことを覚悟で書きとめておきました。

愛は個人的なものであり同時に普遍的なもの、自分と言う枠を超えたものといえそうです。機会を見てまた愛については書いてみたいと思います。

コメントをどうぞ