余白の文化

2023年7月14日

ムソルグスキーの展覧会の絵はピアノ曲がオリジナルで、管弦楽のものはフランスの作曲家モーリス・ラベルによる編曲です。

好き好きなのでどっちでもいいのですが、わたしはほとんどピアノで聴いています。管弦楽に編曲されたものは車を運転している時にかけたラジオから流れてくるのを聴くくらいですから、管弦楽に編曲されたものを語る資格はないのです。ライブでコンサートホールで一度聞いたことがあります。その時の印象は、ピアノで聴く時の緊張感がほとんど感じられないのにびくりしたことを覚えている程度です。それ以来もっぱらピアノで聴いています。

このピアノ曲をオーケストラで聞きくなる心理が理解できないです。フランツ・リストはピアノでなんでもできるとか指針した人ですから、ベートーヴェンの交響曲をピアノで弾けるようにしたりしています。聞いても感動するものではありませんし、帰ってなぜこんなことをするのかという疑問が湧いてきます。音楽家の間ではこのような編曲への誘惑が当然のこととして受け止められているかもしれません。学生がオーケストレーションの練習にとするのは理解できても、それをいわばもう一つの作品に作り替えようとするところが理解しがたいのです。

 

言葉には翻訳がつきものです。川端康成がノーベル賞を受賞したとき、審査員は何語で読んだのかと、インタピューをしていた伊藤整にきいていました。伊藤整が英語ですと答えると、ノーベル賞の半分は英語に翻訳した人にあげたいですねと川端康成は言っていました。

翻訳は編曲と違いますから、必要です。しかししないで済むのなら、翻訳はないほうがいいと思うこともありありますが、今はまだ翻訳の恩恵の方が大きいようです。翻訳機も大歓迎されています。

それでも日本映画を英語の字幕で見ている時に、こんなふうに合理的に説明されてしまうのかと、驚くと同時に、寂しい気がすることがあります。日本語の情緒的なもの、余白、余韻はすっかり削り取られている様に感じることも多いです。逆に英語やドイツ語を日本語に直すときには、だっぷり情緒的に訳す必要があると言うことなのかもしれません。しかし俳句のような短いものになると、日本語の力は遺憾なく発揮されて、行間、余白、言葉にならないところなどが大活躍です。はじめに言葉ありき、言葉は神のもとにありきのキリスト教文化は俳句の真反対の文化を作ってしまったのですから、説明俳句が得意です。

言葉は暗示力が本質です。意味を大切なことに様に考える人もいますが、意味は死んだ説明ですから、行きた文化を作る力にはならないものです。現代、インターネットによって、さまざまな文化が紹介されていると勘違いされていますが、文化とはあんなふうに説明されて伝わっているとは思えないのです。言葉に意味を求めるキリスト教文化と、言葉の余韻の広がりをどこまでも感じ尽くしたがっている日本語とでは、文化の基盤が違いすぎます。人の感性が違います。インターネットの様なものが支配する社会ではかえって文化の溝は広がっているかもしれません。

 

 

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