馬鹿と利口

2023年12月20日

馬鹿というと普通は「知能が足りない」という定義になるのでしょうが、では、その定義からすると利口とは何かというと「知能が足りている、有り余っている」ということなのでしょうか。

馬鹿はネガティブで、利口がポジティブというのは今日の平均的図式です。でも本当にそういうものなのでしょうか。

かつては「野球ばか、自動車ばか」と言ったもので、今日の言葉に翻訳すると「オタク」です。脇目も振らずにそれに夢中になっている人のことでした。夢中になれるのは人間が馬鹿である一面も持っているということだったのかも知れません。微笑ましい「ばか」でした。

電気のスイッチやスーツケースの鍵などが壊れた時、「ばかになった」と言いました。役に立たなくなったということです。簡単にいうと馬鹿は役立たずで利口が役に立つ人という分け方もしていたようです。

 

馬鹿というのは利口と比較して出てくるものではなく、それ自体として存在しているものではないか、しかも知らずに私たちの中で大切な役割を演じているものではないか、そんなことを考えてみたいと思います。

今の社会は全体がお利口さんであることを良しとし、評価しています。みんなお利口さんになりたいわけで、そのために教育があるということにもなってしまうのでしょう。

一方で、コンピューターの中で人工知能というのが生まれ、それがそのうち人間の知能を凌駕するのではないかと騒いで、人類を脅かしています。現実には、知能に関して言えば人工知能の方が既に優っているとも言えるほどのようです。

しかし知能というのは一つの能力だと言っていいと思います。例えば新幹線が人間より速く百メートルを走るからといって、新幹線が人間より優れているという人はいないはずです。「スピードに関しては」と言うかっこ付きでは優れていますが、新幹線が人間より優れているとは誰も思わないものです。

人工知能が人間より色々なところで優秀なのは実証済みで、多くの人が知っていますが、それだからと言って人間より優れていると考える人がいるとしたら、それは人間を過小評価しているからではないのでしょうか。人間存在から目がそれてしまっているのです。

ここで人間の中の「馬鹿」に注目したいのです。

人工知能は「馬鹿」になれるのでしょうか。その時は馬鹿とは言わないで「故障した」と言うのかも知れません。お利口さんたちは正確であることを競っていますから、不正確には耐えられないのです。人間の場合でしたら「失敗」と言うところですが、人工知能に関して言えば「故障」でしかないのです。それは「馬鹿」に属することだからなので、できるだけ馬鹿を克服しようとしていると言えるのです。

人間を人間たらしめているものに個性というのがありますが、それはつまるところ個人のものです。人類には傾向はあっても人類の個性などは言えないわけです。この個性の拠って来るところがもしかしたら「馬鹿」という要素なのではないかと思うのです。そしてこの「馬鹿」って本当はとても賢いものなのではないか、そんな気がするのです。

 

シュタイナーの言い方で「宇宙の知性」(cosmic intelligence)と言うのがあります。これは私たちが言っている知性、intelligenceとはスケールの違うものだと解釈しています。計り知れない大きさと深さを感じるのです。ここにはそれこそ「馬鹿」が含まれているのではないのしょうか。

人間はそもそも馬鹿と利口のバランスの中にいるものと考えることもできるはずです。ここ一世紀、二世紀の間を支配した知性尊重主義が先鋭化して今のような社会状況になっているだけなのではなのでしょうか。もしかしたら「とんがり過ぎた鉛筆」のようなもので、間違って力を入れ過ぎたら哀れにも「ポキッ」と折れてしまうかも知れない、脆いものなのではないかそんな気もするのです。

そんな時いつも「筆」というしなやかなものを思うのです。力を入れても折れない弾力は、人間の中の馬鹿に通じているものがあるような気がするのです。

 

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