訥々と喋るか、立て板に水か

2024年2月7日

今は時差ボケの抜けるあたりで、少しずつ周囲を感じ始めています。昔一度やった長い瞑想の後、再び現実の世界に戻ってくるような感じです。人間は生活のリズムを崩されるとこんなにも脆いものかと、今回は今まで一番痛烈に時差によるダメージを感じました。考える力すらどこから得たらいいのかわからない有様です。

そんな中、手前味噌ですが、YouTubeで聴ける私のライアーを聴いていました。今手元にライアーがないので、これが唯一のライアーの響きです。

グルックの精霊の踊りを聴いていると、私が弾いているからということもあるのでしょうが、指が弦に触れるところが見えるようです。ピアノは音を作り出すところにいくつものメカが組み込まれ、音が出やすいような工夫が凝らされていますから、ライアーの演奏が聴かせられる音作りの瞬間が分かりにくくなっています。その分誰が弾いてもいつもそれなりの音が作れるという利点は利点で特筆すべきことなのでしょうが・・。

しかもライアーからは弦の震えが聞こえて、ゾクゾクしてしまいました。ピアノの演奏技術は高度に発達した訳ですが、その分失ったものがあるはずなのです。そこをライアーが不器用さを武器にフォローしているのかも知れないと感じました。現代のように、なんでも速やかに機能するようになった社会の中で、人間は本当に幸せを感じているのだろうかという問いもそこにはありました。

握り寿司が自動お寿司作り機から量産されてくる様を目にした時は目を丸くしてしまいました。このお寿司と、寿司職人の握る寿司はを同じだと豪語する人もいますが、今の時点では手で握られたお寿司の方が美味しいと感じる人の方が多いと思います。一分間で幾つ握り寿司ができるかという計算からは、単価のことなども鑑みても機械の方が優れているわけで、そちらの効率を取る生産者もいるはずです。これから機械は近い将来AIが導入され質が進歩するはずです。そうなると見分けがつかないものが握れるようになる可能性はありますが、食べるという本質からは逸脱しているような気がします。食べることが栄養だけで語られることもあります。それでは食事の本質から脱線してしまうのとよく似ています。

音楽が技術的な成果の中で語られると、不器用な音楽の世界は素人臭くなってしまいます。練習に練習を重ねてなされる技巧的演奏は見栄えのする見事なものですが、それ以外の音楽的要素を評価する感性は失われてしまったのでしょうか。饒舌と寡黙の比較もよく似ています。立板に水もいいですがも訥々と喋る人の言葉も味があります。

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