米寿を迎えるライアー

2013年1月15日

数え年で言うと、ライアーは今年で米寿を迎えます。先ずはめでたいことだと思うので、お祝いを述べさせていただきます。

お目でとうございます。

ところが、楽器として88歳はたかだか88歳です。楽器としては生まれたばかりの子どもに等しいといえるとおもいます。別の見方をすれば、ライアーはこれからの楽器です。ですからこれからの発展が楽しみな楽器なのです。

 

今あるライアーはほとんどをローター・ゲルトナーさん(亡くなっていますが、さんづけで呼びます)に負っているものです。ローター・ゲルトナーさんは、以外かもしれませんが、始めてライアーを作った人ではないのです。エドモンド・プラハトさんがゲルトナーさんと一緒にライアーを考案して、最初にライアーを作らせたのは別の楽器製作者だったのです。バーゼルの楽器製作者です。その楽器は今は見ることはありません。

たぶんローター・ゲルトナーさんが彫刻家だったからかもしれません。

ローター・ゲルトナーさんが、楽器作りに入った時どう言う直観を得たのかは、彼の残したノートを見るとわずかだがうかがえます。

ライアー工房がコンスタンツにあるのは理由があって、当時楽器作りの腕利きがコンスタンツに居たからです。

そこでゲルトナーさんたちは何度も失敗を繰り返しながら、今のライアーの原型にまで辿り着いたのでした。

彼はどんな気持ちで来る日も来る日もライアーに明け暮れていたのだろう、などと時々ライアーを見つめて思うことがあります。

 

弦楽器とは言え、ギターでもリュートでもない。ハープとも違う。もちろんヴァイオリン属ではない。そんな楽器をどの様に響かせたらいいのか、誰も教えてくれるわけではないのですから、暗中模索だったに違いありません。

始めてのものと言うのは、ライアーに限らず、後の人から見ればとても幼稚なものに見えますが、そこには力強いエネルギーが宿っているものです。

カメラを始めて考えた人は、今最高のデジタルカメラを作っている人たちとは比べ物にならないエネルギーでカメラにむかっていたにちがいありません。そのカメラは見るからにとても幼稚なものです。小学生でも簡単にできるものです。しかしそこには創始者の精神が宿っています。ですから見ていると、ワクワクしてくるものです。それまで写真機、カメラと言うものが人類に存在していなかったのです。そこが始まりです。そこをもっと凄いことと感じなくては駄目です。そして出来あがったものを始めて見た人たちは、最初は何が起こっているのか解らなかったに違いないのです。

しかし時代の流れ、要請と言っていいのだろうけど、その中でカメラはどんどん改良されて新しいものに変わって行き今ある形になったのです。

フィルムの要らないカメラが出てからは、人々が切るシャッター数は何百倍にも膨らんでいます。小さな子どもまでもがパチパチと、何も考えずに撮る様になりました。この先カメラがどうなるのか、門外漢には見当もつかないので専門家の人たちにお任せすることにします。

 

ライアーに話しを戻しましょう。

ライアーと言う楽器は、小さなピアノを手に抱えて演奏する様なところがあります。しかしピアノが持っている一切のメカニズムは排除されて、全ては手で処理します。

弦をはじくので、音量からするととても僅かです。ヴァイオリンが一世を風靡したのは、弓が弦をこすることで弦をつまびく何倍もの音が出るからで、もしヴァイオリンがピッツカートという弦を指ではじく奏法で弾き続けていたら今の様にはならなかったはずです。ピッツカートの音はとても小さく、しかも表情が乏しい音です。

 

ライアーの音は小さいです。これはどうすることもできない宿命です。ここをいじったらライアーではなくなってしまいます。

小さい音と言うのは音楽的に貧しい物と考えている人は音楽の初心者です。その人は音楽のことがまだよく解っていない人です。小さい音と言うのは、お財布の中に小銭がほんの少ししかないというのとは違います。そうではなくて、音の本質的な物と言うことです。ですからライアーは小さな音に命をかけているのです。命懸けで小さい音を作るとも言えるのです。

小さい音に目覚めてください。音は小さいですが弾き方によっては貧弱な音だけでない立派な音も出るのです。大きな音は出ませんが、立派な力強い音は出ます。立派とは言っても物理的に見れば小さい音と言うことになってしまいますが、音楽の音というのは物理的なことだけでは説明がつかないものです。

 

音の秘密は、小さな音でも聞こえているということです。音が大きければよく聞こえるというのは、音の事を、音楽の事を知らない人間の言うことで、音と言うのは、大きな音も小さな音も、もしかしたら同じ様に聞こえているのかもしれないのです。いや必ずそうです。私は結構自信があります。

色も同じ様なところがあります。

薄い赤も、濃い赤もどちらも赤であるには違いありません。どちらからも同じ様に赤を感じているものです。大切なのは色のニュワンスのほうです。

音も同じです。音のニュワンスが音楽には大事だとはライアーを弾いていてよく思うことです。

ライアーはつまびくのでヴァイオリンの様に弓でこする時程表情が豊かには作れないのですが、でもそれは表情付けの問題で、音のニュワンスとは違うことを言っています。

音のニュワンス、これは音楽を深めるには一度は通らなければならないプロセスです。

表情ではなくニュワンスです。

ローター・ゲルトナーさんのライアーは表現的には乏しい楽器だと言っていいと思います。更にその後の後継者たちが作っている楽器の音量と比べたら貧弱なものとも言えます。問題は音のニュワンスです。音のニュワンス、音の味わいです。ローター・ゲルトナーさんのライアーの音はとても味わい深い音です。音が大きくなっている最近の楽器からは聞けないしっとりとした味わいが生まれるのです。そのライアーの音は響くというよりも、呟いている様なところがあるかもしれません。しかしよく聞くと、音が楽器の中でよくまとまっていて、何とも言えない余韻が聞こえて来ます。こんな楽器がローター・ゲルトナーさんが望んでいた楽器なのかもしれません。

 

テクノロジーの発展を見ているとテクノロジーは人間生活をどんどん便利にして行きます。それでお客さんがついて、製品は売れて、また新しい要求が生まれる。

ところがライアーは便利というものと全くと言っていいほど縁が無いものです。

ただ後継者たちの音には、音がよくなる様に工夫されている向きがあるから、残念ながら便利と言う考え方が入っている様な感じがしないでもないです。便利はライアーの音楽をつまらなくさせてしまうから、そこには手を出さない方がいいだろうと私は考えています。この不便を不自由と感じる人がいたら、この人にはライアーを弾いてほしくありません。

ライアーは不便の中に自由がある、私はそう考えています。極めて哲学的なところがあるのです。そしてそこから味わい深い地味なしっとりとした音が、余計な響きを抑えて聞き手の心に届くのです。

今はライアーの停滞時期と言えるかもしれない。だからこそライアーの将来をゆっくり考えることができると言えるかもしれません。課題は不便と自由の調和であることだけは確かです。

 

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