声の発見 その九

2013年1月28日

今回のシリーズは今日の分でおしまいにします。

声のことは深いものですから、またいつか、この続きを書きたいと思っています。

 

周りを見るといろいろな声があります。人間の声もですが、自然界の動物の声、鳥のさえずり。動物園で聞いたライオンのうなり声はさすが百獣の王です、鳥肌がたつほど怖かったです。庭に来る可愛い小鳥のさえずりは、聞いていると疲れがほぐれます。

 

声にはいつも感情的なもの、エモーショナルなものが読みとれます。顔の表情とか、言葉遣いとも違うものです。

いろいろなコミュニケーションががありますが、声はその中でもとても直接的ですし、声が一番伝達力を持っていると思います。人の声を通して聞いたものは「直接聞いた」という感触があります。声は他の伝達道具と違って心に直に働きかけるのです。

 

その声を大切にしたい、もっとよい形で使えるようになったら、そんな願いが今回の「声の発見」を書かせたのです。

人間どうもっと理解し合えたらという願いもそこにはありました。

 

言葉の意味に夜コミュニケーションは結構誤解のもとです。声を聞いている方が話している人の本心が感じられます。人間はウソをつきます。ウソと人間、これは切っても切れないものです。しかもウソは必ずしも悪いものと決め付けられない、深く、複雑なものを持っています(近々ウソに就いて書きます)。

 声はウソをつかないということはとてもありがたいことです。どんな状況のもとでも人間には信じられるものが一つはあるということです。

「今聞いた話しは本当なのかそれとも・・」そんな状況時々あります。

そんな時話し手の声を手掛かりにしています。声は裏切らないです。

私たちの作為的な意志も声を変えることはできないのです。

 

嘘発見器は体の変化を計ります。脈拍とか呼吸とかです。声も同じくらい体に依存していますから、声には本心がすぐに出てします。声に繊細になれば、人の心を読むことができるようになります。読心術は声でもできるはずです。

子どもが何かを隠している時には声を聞くとよく解ります。上ずっているか、暗いかのどちらかというところもですが、隠している時には声に力が無いものです。普段の声とは違う声で子どもは隠し事を隠そうとします。

 

声をいろいろな状況で使い分ける人がいます。子どもを前にした時に、声が一変して、子どもの話し言葉を真似する人がいます。あまり感心しないことです。それに子どもはその声の向こう側を見抜いていますから、そんな子どもじみた真似をする大人を見くびっているかもしれません。

いつも同じ声の調子の人もいます。そういう人はどの人にあっても同じ様に接している人です。自分に自信があるということです。そこから相手がよく見えて来るのです。相手を極端に持ち挙げることもなければ、極端に貶すこともない人です。

子どもはそういうことを本当に鋭く正確に読みとっているのです。

 

声は心の動きが音になったものです。心を安定させれば声も落ち着きます。落ち着いた声は聞き手によく届きます。声はこんな風に循環しています。そしていい声を出している時には、話しての心も安定していますし、声を出すために使っている体がほぐれて来ます。声は背筋を伸ばしてくれます。立つ力を作りますから元気になります。

大急ぎでしたが、今まで書いてきたことをまとめてみました。

 

声の魅力はいくつもあげられます。

ここでは最後に一つ、声に性的なものが含まれていることを取り上げてみたいと思います。

男性の声変わりは思春期という時期に起こります。思春期は性的な兆候が現れる時です。

性、英語ではセックスと言いますが、それはいやらしいものではなく、もともとの意味は男と女がいるということです。人間は男と女からできているということです。

人間の存在はこの二つが補い合っているわけで、どちらか一つが無くなると困るのです。

性的なものというのは、創造の源であり、そもそも創造的なものでもあります。子どもを産むこと、子孫をつくることです。人間の中で一番大きな創造的な仕事と言ってもいいもので、声というのはこの創造性にかかわって来ます。

 

声は何かを作っています。声を聞いているとそう感じるしかないことがあります。ただ声を聞いているという以上の謎めいたものです。

私たちが声を出している時というのは芸術家が芸術作品を作るときと同じくらい創造的なのです。そこに気がつかなければ声はただいい声嫌いな声という表面的なものでしかなくなってしまいます。声の中には何かが生きています。それが聞き手の心の中に入って行くのです。声はただの音ではなく、創造と言う人間の仕事の一端を担っているもの、そう言って好いと思います。

 今回はここまでです。この先をお話しすると、神秘的な世界に入ることになりそうです。

One Response to “声の発見 その九”

  1. 村上恭仁子 より:

    京田辺シュタイナー学校で、着物を着て参ったものでございます。
    あれから、「骨を固める」ということについて考えています。数年たって振り返って、ああ、これがそうか、とわかるものだと思いますが、あえて言うなら、「真っ直ぐに立つ」「光の柱を持つ」ということだろうか、と思います。
    久しぶりに、ブログを拝読しましたが、「芸術」に関してと、「声」に関する記述は、本当に胸のすく思いです。声にならない声を言葉にしていただきました。
    また来年、お会いできること、心より楽しみにしております。

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